晴天の霹靂

びっくりしました

背表紙を吸いに図書館へ

読みたい本は電子書籍で買うようになってから、手持ちのKindle端末もじわじわ増えて今や三台。

家のあちこちに置いてあるが、どこでどの端末を手に取ってもさっきまで読んでいた本をさっきの続きから開けるのだから便利なことこの上ない。

どんなに厚くて重くて長い本も、Kindle端末なら寝転がってらくらく読めるし、翻訳版が高い本も原書で買って翻訳機能を使えば安く読めたりもする。

そういう読書をしているとしみじみ、「SFで読んだことある未来生活みたいじゃないか」と思うところだ。

 

そんな話を紙派本好きにすると

「便利なのはわかるけど、今だいたいどの辺を読んでるのかがわからないと頭に入らない」

と言われたりする。

それに関しては同意である。とくに目次もついてないような本をKindleで読んでると最初から最後まで迷子になってる感じは、実際ちょっとある。

電子版を読了した本を、本屋さんなどで見かけるとわざわざ手にとって

「ふーん、あのエピソードこのへんか。あ、こっちは思ったより最初の方だったんだ」

などと物理ポジションをチェックをしていることがあって、妙なものだ。

本って、思ってるほど純粋な「情報」ではなくて、わりと肉感的なものなのかもしれない。

 

さて、図書館。

「せっかく図書館で本を借りても期限までに全然読めない」ということがなんとなくプレッシャーになって足が遠のく時期というのもあるのだけど、最近は「背表紙を吸いに行く場所」だということにした。

手軽な電子書籍に慣れてしまったから改めてしみじみ感じるのは、やっぱり物としての本の存在感である。

「読んでもらいたい」といういろんな人の思いが結集してできたのがあの形と思えば、やはり圧巻ではある。

タイトルから装丁から中身まで、一心に読まれることを目指してできたカタチがずらずらと並んでいるところに行って

「いやあ、いっぱいあるねえ」

なんて思いながら背表紙浴をする。

良い光線を放ってくる背表紙は手にとってためつすがめつする。最初の1行を読む。気になったら座って読む。

もっと気になったら家に持って帰ってみる。

しばらく部屋に置いて朝な夕な眺め、2週間くらいしたらあの背表紙の海の中に帰す。今週もいい背表紙浴をした。

別に図書館で借りて来たからと言って読まなきゃならんということもないのだ。

気に入ったものをちょっと借りてきてしばらく部屋に飾っておいてまた返すシステムとして図書館は十分素晴らしく機能する。

 

より楽しむたのめのアイテムとして、chromeには『その本、図書館にあります』という拡機能があってすごく便利である。

インストールしておくとアマゾンで書籍情報を検索したときに近隣の図書館に所蔵があるかどうかを自動で表示してくれる。

話題の新刊なんかは延々と予約待ちになっていたりしてちょっと借りられないが、絶版になって中古マーケットでバカバカしいほど価格高騰している古い本なんかが普通に借りられることはままあるので、そういうのをちょっと借りにいってみるのも面白い。

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