ホラーマニアの知人が居ます。
マニアにもいろんなタイプがいるんだと思うのですが、理屈っぽいその人はホラーとか怪談の構造の部分が好きなタイプです。
そういう人が数見て経験値を積むとどうなるかというと
「ははーん、こういうパターンはアレとアレとアレでもう見た。全然怖くないっ!」
とか言い出しがちです。
そんなの酔わない人が酒を飲むのと同じで一番つまらないホラー映画の見方なんではあるまいか、と私は思うのでありますが、どういうものか。
怖くないって言い張ってる人が実は一番楽しんでるっていう可能性もあるのは難しいところではありますね。
その理屈系ホラーマニアが「怖くてまだ最後まで見られてない」って言ってたのが、近頃話題のネットフリックスオリジナルの台湾ホラー『呪詛』です。
私はまた筋金入りのホラー嫌いなので(だって怖いんだもん)、耐性ある人が「最後まで見られない」って言ってるものなど、普通に考えればちっともみたくないんですが、ここにひとつ興味深いポイントがあるのです。
そのホラーマニア女史、数々のホラー要素にはほとんど無反応なくせに、不思議なことに集合体恐怖で、タイル貼りの浴室とかを唐突にヒーヒー怖がります。
こちらとしては、怖がりなのをちょっと甘く見られてる立場なだけに、どう考えても何もないところでいきなり怖がり出すのが、申し訳ないけどちょっとおもしろい。
そうなってくると私は思うわけです。
「してみると『呪詛』もきっと集合体恐怖系であろう。むしろ私は余裕なんではあるまいか?」
無駄な対抗心が湧いてきたりなど、するわけです。
本当に、冗談じゃなかったですね。めっちゃ怖かったのです。
それこそ「恐怖の構造」的な話をすれば、根幹の仕掛けには私はそんなに乗れなかったんです。
ユーチューバーが出てきて何かを拡散し見る側を巻き込む、みたいなやり口はホラージャンルにかかわらず「もうそろそろだいぶ見たからいいかな?」というような気になってきます。
しかし、現代風な仕掛け自体にはやや否定的な視線で見るとしても、普通の演出がめちゃめちゃ怖いのです。
小さい女の子と、シングルマザーですよ。
事情があって女の子に一週間食事を与えてはいけないって言われた母親が、日に日に衰弱していく我が子に隠れてマンションの共同階段のところで泣きながら菓子パンを立ち食いしたりするんです。
どうせ味なんかしないけど、我が子を救うために自分はちゃんと生き延びないといけない、でもこれは本当は子どもに食べさせてやりたいものなんだ、と思いながら口に押し込んでいる孤立無援の悲しみが、何の説明もなしにひしひしと伝わってきて、この親子に対してこちらの感情がもう、ほぼ丸裸です。
そこまで感情移入させられてからは、もう何が起こっても、恐怖の仕掛けが新しかろうが、古かろうが、全部怖くて仕方ないって話です。
ホラーに至るまでのホラーじゃないところの演出がうますぎる。
あんまりこの二人に肩入れして見ていると、「最終的に私の体調が保たないんじゃないかな?」という予感がすごいのです。怖いよお。
あんまり怖すぎたことに苦情を言おうと思ってホラーマニア女史に苦情がてら
「集合体恐怖的に怖かったのか、普通に怖かったのか、どっちだ」
と問い合わせたら
「両方」
という返事が来ました。
そういうパターンもあるのか。ぬかったな。
本当にしつこいようですが私はホラー映画が大嫌いなんですが(だって怖いんだもん)、この夏はアジア系のホラーがとにかくいいというので、立て続けに三本見る羽目になりました。
『女神の継承』『コクソン』『呪詛』
と続けて見て、私にとっては本当に怖かったのは『呪詛』だけではあったんですが、とにかく自分から進んでわざわざ怖い思いをしてしまった、それも立て続けに三回も!
ということが、誰にともなく許しがたいと憤慨したものでありました。
そしたらね、ちょっと聴いてください。
私は普段、机に向かってないときに何か思いつくとたいていアレクサの「やることリスト」にアイディアのメモを残すようにしてるんです。
外を歩いているときなど、アレクサまでのアクセスさえもちょっと手間なときはiPhoneの音声メモを残すようにしています。
そっちは本当に歩きながら囁き声でメモったりするので、たいていどこかしら間違えて吹き込まれたりはするんですが、それでも見直せば意図したことは思い出せるので使っています。
『呪詛』を観終わったあたりでふとスマホを見ると、音声メモにいつ作ったのか覚えのないものが入っているじゃないですか。
なんだったかな、と思って開いてみると、こんなメモでした。
意味分からない、なんか怖い、ホラー映画見すぎてごめんなさい!