晴天の霹靂

びっくりしました

編む人見る猫

猫は編み物をしているときの私がどうやら好きだ。

長い時間じっと座ってるので膝に乗りやすいのだろう、なんだか嬉しげによってくる。

 

子どもの頃、赤い毛糸でマフラーを編んだことがある。

あれは、冬休みの自由研究かなにかではなかったか。

たぶん、表編と裏編のやり方だけかろうじて知っていた母から教えてもらったのだろう。

マフラーは出来上がったが、モツ煮込みみたいに両端がクルンと丸まって、実用レベルではちょっと使えなかったと記憶している。

メリヤス編みは丸まるものだ、ということを、教えてくれる人はいなかった。

それでも一応の完成に気をよくした私は、翌年の冬休みは家にあった雑誌かなにかにのっていたセーターを編んでみようとした。

春先の安い時期にオフホワイトの半額の毛糸を買っておいた。

しかし、編めば編むほど、サイズがおかしいということが判明してくる。

自分が大人になるのを待っても、まだ大き過ぎて着られないであろうと思われるほど、「やけに巨大なセーターの裾」が徐々に見えてくる。

どうすれば状況が改善されるのか皆目見当がつかないそれを、完成させた記憶はない。

それなりの数あったはずのあの毛糸は、その後いったいどうしたろう?

「本の通りの糸の太さと針の太さで作らないと、本の通りのサイズにならないのだよ」

と、教えてくれる人もいなかった。

まさか世の中に、一ミリごとに太さの違う編み針があるなんて想像してみたこともなかったのだ。

 

You Tubeさえあれば、なんでも作れる時代が来るとは思わなかった。

猫を膝に載せたまま、誰にも何も聞かずに、かぎ針でニット帽を作り、四本棒針でニット帽を編み、輪針でネックウォーマーを作って、次はありとあらゆる編み針を総動員で五本指手袋を編んでいる。

どうすればサイズの調整ができるのかは、もう分かったから解いてやり直すのも全然苦にならない。

どうやら編み物は、思い通りにサイズを決めるのが、もしかしたら一番難しいのかもしれない。

ほどいては測り、測ってはほどき、動画を確認し。

そうやって静かに座っている私の膝で、猫は編み物動画をじっと見る。

最近めっきりパソコンの画面に興味を示すようになってきた彼女は、編み針の先が動くのが面白いのか、編み物動画もお気にいりのジャンルだ。

自分の頭の上で実際に編み針がカチャカチャ言ってるのはさておき、画面の中で編み針の先がさかんに動くのをじっと見つめている。

「本物のほうがおもしろかない?」

と、私は思うのであるが、そんなこと言ってる私も、猫を膝に載せたまま猫動画を見るのは好きなので争えない。

 

買ったほうが安い、と言って生活の中でなにかを生み出すことを諦めるのはいずれ生活から誇りを奪われていくことだ。

だからそれが楽しいなら、遠慮しないでなんでも作ればいいじゃないか。

また鍋つかみみたいなサイズになってしまった、小指と親指だけの手袋に手を入れて首を捻る。

おっかしいなあ、針のサイズ一号下げたんだけどな。

「また編み直しだねえ」

と言ってみても、猫の方はもとより何の異存もない。

ゆっくりゆっくり時間を掛けて、いびつな手袋がどうやら一枚出来上がる。

それがなにかと言えば、つまりそれが生活。