晴天の霹靂

びっくりしました

『1984年』~どのゴールに向かって誰が何をどうしたものやら

道を歩いていたら向こうからジョギングしてくる男性がいる。

きゅっと口を引き結んだ表情で走っているのがすれ違いざまうっすら印象に残った。

と、思ったら通り過ぎてから後ろでプハッと声がした。

すれ違った瞬間の映像を頭の中でリプレイすると、そうそう、その人は走っている途中で外したのであろうマスクを手に持っていた。

そして道の向こうから私が歩いてきたので気を使って、すれ違う瞬間、わざわざ呼気を止めていたのだろう。

だからあんなふうに口を一文字に結んでいたのだ。

と、今起こった現象と先程の映像の因果関係がすべて解けて

「いえいえ、いいんですよ。本当にすいません」

と思った。

ジョギング中にわざわざ呼吸ペースを乱すのはずいぶんダメージが大きかろう。

たぶん、すれ違った瞬間だけ息を止めても、エアロゾルやら何やらみたいな文脈ではほとんど意味はないのだろうし、万が一なにか感染するようなことがあるとしても、もうこの際、断じてあの人のせいではないじゃないか。

私も暑くて息苦しかったし、人の少ない道を黙って歩いていたからマスクを外していた。

たんなる「マスクしぐさ」だとしても、どうしてもマナー上どちらか息を止めてすれ違わなければならないなら、歩いている私が止めたほうが体への負担は全然楽なのだが、こっちは雑な性格だから全然気づかない。

「ああ、こうやって親切で気配りする人ほどいたずらに消耗していくのか……」

と思うと、ちょっといたたまれないものがある。

 

人類がコロナウィルスに打ち勝つまであと二週間程度だと思っていたら、どうも記憶違いで、人類の努力と英知によって難局を乗り越えていけることを発信するまでがあと二週間だったから、どうやらまだだいぶゴールが先だったのだ。

 

近頃しきりに思い出すジョージ・オーウェルの『1984年』のことを考えれば、10年くらい前にはじめて読んだときは「それほどピンとこないなあ」というくらいの感想だった。

たぶんそれだけ今よりも「確かな現実は存在する」というようなことを漠然と信じていたのだろうと思うと、ちょっと懐かしい。

あの頃はオルタナファクトなんて言葉もまだなかったし、情報改ざんのための省庁も、まったく別の地平で自主研究してる学者も、存在しなかったのだ。

近頃読むと、ぜんぜん違う本かとおもうくらいのリアリティを持って面白いのを、喜んでいていいものやらどうなのやら。

 

  未来 へ、 或いは 過去 へ、 思考 が 自由 な 時代、 人 が 個人 個人 異なり ながら 孤独 では ない 時代 へ ─ ─ 真実 が 存在 し、 なさ れ た こと が なさ れ なかっ た こと に 改変 でき ない 時代 へ 向け て。       画一 の 時代 から、 孤独 の 時代 から、〈 ビッグ・ブラザー〉 の 時代 から、〈 二重 思考〉 の 時代 から ─ ─ ごきげんよう

ジョージ・オーウェル; 高橋 和久. 一九八四年 (ハヤカワepi文庫) (Kindle の位置No.775-780). 早川書房. Kindle 版.