晴天の霹靂

びっくりしました

『アンという名の少女』 ~老人血まみれ成長譚

Netflixで『アンという名の少女』season1を観ております。
面白い。


不朽の名作をドラマ化『アンという名の少女』予告編

 

子どもの頃に読んだ本を違う世代になってから読み返すと、感情移入する人物が変わっていてまた新鮮に楽しめる、というのはよくあることですが、モンゴメリ作の「赤毛のアン」もそういう読み方をされる代表的なもののひとつだと思います。

 

児童文学としては「ちょっと風変わりの子」くらいで済まされてしまうアンの性格ーー注意力がいきなり飛んでしまう傾向や、しゃべりすぎ、容姿への極端なこだわりとか、空想の中に閉じこもってしまうところーーなどは、大人になってから読むと彼女が安心していられる場所で暮らしたことが一度もなかったという生い立ちとどれくらい不可分に結びついてるものかがよくわかって、本当に胸に染みます。
そういう「大人になってからの、わたしの『赤毛のアン』再読体験」を、Netflixでやられてしまうのか、うーんこりゃ参ったね。と思いました。

 

自分には何ができるかのプレゼンを必死にし続けなければいつでも誰からでも捨てられてしまう境遇なのだという描写、過去のつらかった出来事がフラッシュバックしてしまうから現実世界に長く注意力をとどめておくのが難しいのだという描写、そんな中で生き抜く知恵として魅力的な言葉や情景を必死にかき集めて空想の王国を作ってそこに閉じこもろうとしている描写、など。映像ならではのシンボルからシンボルへの瞬間的で自在な飛躍で表現されます。

正直言って、アンがグリーンゲイブルスに着く前からあたしゃもう泣いている。そして最後まで泣いている。

 

アンを引き取るにあたって、まず最初に成長しなければならなかったのは、誰あろうマシュウ、マリラの老兄妹だったことも、やや残酷なほどの痛みをもって表現されています。
たぶん、最初に子ども向けの本として手にとったときの『赤毛のアン』では、もう完成されているがゆえに厳しくもある導き手として表現されていたはずのマリラの、身も蓋もない幼さ。
それこそ間違いなく大人のための『赤毛のアン』であり、それでも子どもの頃夢中になった空想力の魅力に富んだ赤毛のアンであることからは全然踏み外さない脚本に感嘆するのです。

 

そもそも冒頭の、海辺の乗馬シーン。
過去の赤毛のアン映像化作品を全部見たわけではないが、あんなシーンから始まる赤毛のアンの解釈がかつてあったのか。
ぱっと見、『ゲーム・オブ・スローンズ』か何かが始まっちゃったみたいな絵面でもあり、
「あれ、私なにか間違って再生してるのか?」
と思ったものです。
それこそがまさに「プリンスエドワード島の美しい景色の中でちょっと変わった少女が素敵な女性へと成長する物語」なんていう、きれいなオブラードに包みまくった作品にはしませんよ、という宣言ではないか。

 

空想の中に逃げ込んでうまく出てこられなくなった少女と、全方位に心を閉ざすことで心の安定を維持してきた老人の血みどろの成長譚であり、シビれる作品なのだ。
……などと言いながら、まだほんの二話視聴中なんだけど、もうずっと泣いてる。

 

 

 

赤毛のアン (文春文庫)

赤毛のアン (文春文庫)

 

 久々に『赤毛のアン』の新訳を買いましたが、使用人として出てくる英語の下手な「貧しいフランス人の男の子」が、いったいどうしてフランス人なのか、というような説明までちゃんとあり、面白い。

美しい田舎街で暮らす心の優しい人々の世界、なんかではもちろんなく、当然そこには熾烈な差別の世界があってこそ、表面の美しさは支えられているのだ。