晴天の霹靂

びっくりしました

あずき色交差点

積雪の季節になると、近所の交差点に出没するあずき色のおばあさんがいる。

元はおそらく茶色だったろうと推測されるが、長年日にさらされてすっかり色がさめたナイロンのコートを着ている。
そのコートに全身の大部分を覆われているがゆえに、おばあさん全体があずき色であるような印象を与えるのだ。


おばあさんはソリに大道具を詰め込んで、天気の良い日の午後、交差点に現れる。
そして交差点の横断歩道と車道の境目部分の雪を割るのである。
最初にみかけたときは、雪かきが雑に行われている箇所があるのを、近所の人が見かねて自ら骨を折り、歩きやすくしてくれているのだろうと思った。
だから、信号待ちのタイミングでもあれば「ありがとうございます」くらいの声はかけるべきだろう、と私は少しばかり緊張したのだ。


なぜなら、車道脇だから小さな声だとどうせ聞こえないし、かと言ってそれを言うためだけに大声でおばあさんの手を止めさせてもその後の間が持たない。

その風変わりな色のコートは「さっと挨拶をしてさっと立ち去る」というようなコミュニケーションのあり方を拒んでいるようにも見えたのだ。
気が小さい私はむしろ、信号待ちでおばあさんと二人きりにならないように歩くペースを微調整することで存在を消して冬を過ごした。

 

やがて季節の移り変わりとともに、そのおばあさんは雪があるかぎりいつもそこにいるのだということに気づく。
なんならそのあずき色のコートは交差点に立つためのユニフォームであり、道具を積んで引いてくるそりは交差点で雪割りをするための専用道具箱らしいのだ。
固く締まった雪や氷を割るためのツルハシやら金槌やら、お年寄りが使うにはだいぶ骨が折れるであろう道具がたくさん入っている。

 

そもそもここは、おばあさんに雪を割ってもらわなければ渡りにくい交差点なのだろうか。
私の子どものころとは違って、市内は夜中のうちに実に念入りに除雪と排雪がされるし、滑りやすい交差点などは砂も撒かれる。
どの交差点も丁寧に除雪されている長い幹線道路の、とくにあの交差点だけ、どこか渡りにくいところがあるようには私の目には映らないのだ。

むしろ車道の際でお年寄りが雪かきをしているのは、車を運転している人にとっては怖いことだろうし、見ていてもちょっとヒヤヒヤする。
毎年決まってその交差点が歩きにくいのであれば、役所に連絡とるなどして、「除雪の方法を変えてもらえないか」などと談判するべきなのではないか。

そうしてあのおばあさんが危険な場所にいつもいる状況を回避するように手を打たねばならぬのではないか。

 

さほど必要もないけれど、家にいても暇だから運動がてら出てきて雪を割っているという見方もできる。
しかし、事情もわからぬままレジャーと決めつけるにはやはり危険な場所であるし、第一そういうものの見方というのは非礼なものかもしれないではないか。
みんなのために良かれと思って日々何か仕事を引き受けているうちに、「あの人は好きでやってるのね」と誰からも感謝されなくなり、いつの間にか「やって当然」くらいの雰囲気ができあがってさえいることに気づいて慄然とする、というのは親切な人に起こりがちなことである。

 

さて、私は自分の存在感を消すことによってあの場所でおばあさんになにかを押し付けてしまっているのだろうか。

それともあの人はあの場所でずっと雪を割って季節や街の躍動を感じ続けていたい人なのであろうか。

どの年の雪の時期にも同じ場所に同じおばあさんが同じペースで出現するのを目撃して、しだいに世界が私になにか質問を投げかけるために仕掛けたトリガーではないか、とさえ思えてくる。

何か「ざわっ」とするのだけど、この「ざわっ」をどう扱ってよいのかわからない。

このわからない事柄は、わたしがわかろうとすべき事柄なのであるか。

どうしたらいいんだ世界、そしてまもなく跡形もなく溶けて消えてしまう雪とあずき色の問よ。