古い銭湯に行くと訳がわからない深さの浴槽に出会うことがある。
立って入るんだか座って入るんだかよくわからない水深に一瞬
「子どもとか、うっかり溺れないのか?」
とびっくりするのだけど、ゆっくり入ってると水量が多いだけあって水圧のかかり具合など、実際なかなか気持ちがいいので感心する。
パッと見は小さな浴槽だけど、さすがに家の風呂とは比べ物にならない快適であるなあ、などと思いながら腑抜けた顔を天井に向けると、銭湯特有の高い高い屋根から、男湯と女湯を仕切る壁に向かって、珍妙な針金が渡してあるではないか。
明らかに素人が施した、こだわりのない仕事ぶりではあるが、何しろ高い天井だ。
それほどおざなりな心準備でできることでもないはずである。
「はて、なんだろうあの針金は?」
いろんな角度に首を傾けつつ見上げるが、何も思いつかない。
どう見ても有効な使いみちはないが、しかし、あんなところに「なんとなく針金をわたしてみる趣味」の人はおるまいよ。
よくわからないところによくわからないものがあって、よそ者には絶対その法則を理解できない、という感覚は「人んちの居間」にいるみたいな気になる。
私があの針金をどう思おうが、ここの銭湯の人にはいっこうどうでもいいのだろう。
そうやっって上ばかり見ていたら、真横でざぶっとお湯から上がったおばあさんが目の前の洗い場に座っている別のおばあさんの裸の肩にちょっと触れて挨拶をした。
手慣れた感じで椅子とケロリン洗面器を持ってきてそばに座ると、猛然と背中を流し始める。
私はびっくりして針金を見るのをやめて、おばあさん達の背中を見つめた。
わざわざケロリンを持ってきただけであって、ちょいちょいと擦って終りではないのだ。
按摩を兼ねて肩をもんだり拳で背中をぐーっと押したり、立ち上がったり座ったり、白い泡の下でずいぶんと丁寧な仕事ぶりである。
「隣人の顔も分からない」でおなじみの都市の中に、こんなに原初的な交流方法が残っているものだろうか。
あんまり贅沢な瞬間なので、若干のぼせ始めているのを我慢して熱心な観察を続けてしまう。
ケロリンのおばあさんはやがてケロリンと椅子を元の場所に几帳面に戻し、何事もなかったかのように今度は小さな電気風呂へ入っていった。
そうこうしてると小さなサウナから第三のおばあさんが出てきて、流し場のおばあさんに何事か声をかけた。
「今流してもらった」
「ああそう、今日は早いんだね」
と聞こえる。
なんと、全員が全員の背中を流し合う仲なのだ。
かくなる上は、あんまり「人んちの居間」でよそ者がお邪魔するのも悪いかなあ、という気持ちになってきてサウナやら水風呂やらは覗かずに、体を洗って温まったところで私はそっと上がった。
ガラス戸のところ振り返ってみれば、今度はケロリンのおばあさんが流し場で背中をやってもらってる。
きっと、流しているのがサウナのおばあさんだろう。
脱衣所で体を拭きながら考えこんだ。
まさか、とは思うのだけれど、先程から薄々気になっていたことがある。
私の気が確かならば、ここにきた時からずっとずーっと舟木一夫がかかっているのだ。
さすがに幻聴ということもないと思うが、2021年の世の中に舟木一夫専門有線放送とか、あるんだろうか。
それとも私は、狐か狸に化かされて家の近所の原っぱで肥溜めにでも浸かっているのだろうか。
「どうもー」
「ありがとうございましたー」
番台にちょっと声をかけて、手のひらくらい大きな木札のついた下足箱から靴を出す。
入り口が狭いので私が靴を履きおわるのを外で洗面器を抱えたお客さんが一人待っているのに、軽く会釈をして出る。
出入り口のところには井戸水を使用している旨の札が貼ってあった。
ああそうか、成分はきっと温泉とほぼ等しいのだろう。
やたら疲れてぐったりして、夢見心地に気持ちがいい。
なんだか不思議な時空に紛れ込んでしまったものだな。
ドライヤーを使う気すら失せたせいで、濡れたままの髪を秋の夜風に吹かせながら、タオル抱えて歩いて帰る。
都市辺境の亜空間から、風呂の壊れた我が家へ。
「ぼくらっ離れ離れになろうともぉ クラス仲間はいっつまーでもーっ、と」