晴天の霹靂

びっくりしました

桃の枝を買う ~花もいいが枝もいい

今週のお題「雛祭り」

 

桃の節句が近いので、花売り場にたくさんの桃の枝が出ている。
正直言うと、梅だか桃だかよくわからないのだが、菜の花やあやめとセットにされているところから類推するに、きっと節句用の桃であるような気がする。
いや、本当のところはあやめなんだか菖蒲なんだかも見分けがついていないうえに、かきつばたのことまで考えると完全に頭を抱えるのだし、そのどれにせよ、桃の節句とあまり関係ないんじゃないかという気もしてくるに及んで、ここは潔く何も考えないことにした。
私の知識に基づいた事実のみを述べれば、花売り場で桃色のつぼみをたくさん抱いた枝が、実に春めいてかわいらしかったのだ。

 

家にはまだ、年の瀬に買った松の枝(てっぺんにまつぼっくりが膨らんできてるのがかわいらしくてずっと育ている)も、ネコヤナギ(猫のしっぽみたいな毛並みだったのに、だんだんめしべが出てきて怒った猫のしっぽみたいになったのがかわいくてずっと育てている)も、春らしい黄色がほしくて買ったカーネーション(延命材を入れた水に活けているのでめしべがびよんびよん出てきてからも全然枯れない)も、まだどれも元気で暮らしているので、花生け用のグラスは満員なのである。

しかし節句をすぎるとこの可愛い桃色の枝も出回らなくなるのじゃないかと思うと、ぜひとも買っておきたい。

 

結果、見た目の美しさなど二の次、わけのわからないほど枝やら花やら、詰め合わせの大所帯になってしまったのグラスの中で、目を見張るスピードで桃はどんどん開花している。
買ってから帰宅するまでの間に衝撃で落ちてしまったつぼみの後からも、若くて小さな葉が元気いっぱい芽吹いてくるのが、本当に頼もしい。
新芽のかわいらしさというのは、あかちゃんのかわいらしさと同質のもので、育ちきってしまってからの姿がいかに凡庸と知っていようが、まっすぐ未来へ向かってゆくポテンシャルの高さゆえに、本能に訴えてくる無条件の輝きがあって応援せずにいられないものだ。

 

本来ならこの後も毎年つぼみを付けたのであろう枝、切らなければ育ててくれた人に見せるはずだったであろう花が、急につれてこられたうちの小さいグラスの中で生命サイクルをまっとうしようとする姿を見るに、彼らが小さな小さな無言の生け贄であることを思う。
花を活けるのは、生命が形態変化しながら生きていくのを見る喜びであると同時に、その寿命を縮めてまで我が物にする行為である。
そうやって、胸を弾ませたり、胸を痛めたりするのは、自分より大きな存在を予感するためなのかもしれない。
だから私は、去年の夏に飼い猫を看取ってからもう部屋に花を切らすことができずにいるのか。

 

松も、ネコヤナギも、桃の枝もみんな、もう少し暖かくなったらベランダのプランターにさしてみる気になっている。再生の季節だ。

 

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タナトスを温めており桃の枝

 

自己流園芸ベランダ派

自己流園芸ベランダ派

 

 「花は生贄」と書いたのはベランダで植物を育てるいとうせいこう氏。どうせ枯れてしまう花を胸を痛めながらこんなに執拗に買ってくる自分の気持ちがようやくわかって膝を叩いた。