最近児童文学をせっせと読んでいるのであるが、中でも「おお、これはっ」と思った一冊。
なんか装丁と中身に乖離があるような気がしてもったいない。
映画を作ってる14歳の少年の話なのだ。
冒頭は主人公の拓郎君のところに映画コンクール入賞の知らせが届くところからはじまる。
審査委員特別賞をとったその作品には「世界のヤマモト」なる有名な映画監督からの講評がついている。いわく「ブスの主演女優が印象が強くて良い」と。
ここで拓郎くんは頭を抱える。こんな講評を主演してくれた同級生の涼子に見られるわけにいかない。そもそも「世界のヤマモト」は、拓郎が選んで主演を頼んだ涼子に対してなぜブスなどと言うのか?
人は見た目が全てなのか?
拓郎君は、涼子がブスだというので教室でもしばしば嫌がらせを受けているのはなんとなく知ってはいたのだ。
しかし「涼子はブス」とはどういうことか?という問題に、鼻面掴んで思いっきり直面させられるのはこの世界のヤマモトの発言がきっかけとなる。
なぜなら拓郎は涼子は魅力的なところがあると思っており、だからこそ自分で撮る映画の主演は涼子しかいないと最初から決めていたからだ。
「あいつら」にとって涼子がブスに見えているからといって、なぜ涼子は教室で馬鹿にされなければならないのか?
そう思って周囲を見まわせば、ぱっとしない子も、美少女も、イケメンも、ブサメンもおじさんもおばさんも、全員が見た目に振り回されながら生きている。
「どうしてみんな見た目をそんなに気にするのか?」
あっという間にその問題で頭がいっぱいになり、そろそろ撮らなければならない次回コンクール用の作品にも着手できなくなってしまうのだ。
この一本の筋にまとめるのが難しそうな群像劇がどこへたどり着くかと言えば、美術部所属の涼子が、悩める拓郎に完成した自分の作品を見せてくれるシーンへと結実する。
地球儀を使った、世界観の大きな情熱を感じる作品。
涼子が教室でいじられていることが、本当に見た目ほど平気なのかどうか、あまりしゃべらない子であるから心の内はわからないままだ。
しかし、そういう「勝手に世間の目でジャッジしてくる人たち」の世界とは別に自分の目で見て感じてやりたいことをやる、という別の評価軸の世界観があることが、「拓郎だけが感じ取ることができた魅力」を作っていたということに気付く。
「また映画とるよね」と涼子に言われて、世の中見た目じゃねえだろ、という自信を手に次の作品を作る情熱が湧いてくるのだ。
私がおもしろかったのは「映画を撮ってる14歳」という設定の魅力もさることながら、信じがたいほどデリカシーのない「世界のヤマモト」がなかなかおもしろいのだ。
中学生が同級生と撮った作品の出演者に対して堂々と「ブス」と言い放つ無神経さはまったく弁解の余地もなく、作品としてもそれを庇い立てするものでは一切ない。
しかし、読み進むと見えてくるのは、「拓郎は世間的な偏見に惑わされることなく自分の感受性で世界を直接見る能力に秀でており、それが間違いなく才能の一種であること」に、唯一気づいて正確に評価することができた大人でもあるのだ。
最低の人間だが、すごい人じゃないか。
暗くなってもおかしくないテーマであるようにも思うのだけど、それを明るく背負えるのは主人公が「映画を撮ってる14歳」という、やっぱりちょっと内面には人と違うものを持ってる、あるいは人と違うことに価値を見出していくポテンシャルを持ってる子だからなんだろうなあ。
児童文学、面白いな。