最近読んでめちゃめちゃ面白かった本。
2014年にデヴィット・フィンチャーが映画化したときに原作を知らずに見て
「なんかすごく嫌な映画を見たぞっ!」
と印象が強かったものでした。
映画では完璧な見た目の主演女優ロザムンド・パイクの迫力に圧倒されてうっかり「女って怖え映画」かと思ってしまったのでした。
最近、原作がセールになってたこともあって小説で読んだところ、そりゃあ面白くてびっくりしまして、ついでに映画も見直したら、本気の怪作でした。
前にラジオで男性DJが結婚生活についてこんなふうに話すのを聞いた話があるんです。
「ある日突然カミさんが愛想をつかして出ていったとしても、自分は出ていかれる瞬間まで何も気づかないと思う」
この話がちょっとおもしろかったので男性の友人にしてみたら、間髪を入れず
「あ、わかる。俺もそう」
と返ってきました。
そんなに漠然とした不安があるのなら、何か手のうちようがあるような気がするんだがいかがなものか、と問えば、
「自分なりに努力しているつもりではいるが、全部見当違いであるような気もする」
ということであり、笑い話としてはめちゃめちゃおもしろいんだけど、日生活のど真ん中に置かれたそのブラックボックスの存在感はなかなかのもんでありますね。
一方、初めて映画を見た2014年から今回原作小説を読んだ2021年までの間に私のライフヒストリー上で何があったかというと、母が他界しています。
「噂には聞いていたが、本当にこんなに何もないのか人生は」
と思って、それにはちょっとぼんやりするものがありました。
あの人は、後退を続けた人生だった。
孤立無援の大海原に「核家族」という船で漕ぎ出したはいいが、「船が小さいから余分な荷物は全部捨てていこう」なんて言われ、善意から「自分らしさ」をひとつまたひとつと海底に投げ捨てていくうちに、もはや船の中では「自分の荷物を捨てる係の人」という役回りになっており、そして脱出する道もない。
思えば母はゴーンしない方のガールだったのであり、広い海の底にはいまや誰もしらない彼女が投げ捨てた小さな荷物がたくさん眠っているわけです。
18年もその小さな船に乗っていたはずの私がそのことに気づくのは彼女の人生の輪が閉じてからでした。
それであれば
「カミさんが出ていく瞬間まで俺は何も気づかないと思う」
と言う友人の話も、別に笑い話でもないのです。
誰か一人が無限後退を続けることによってだけ安心と平和がもたされるとすれば、そもそもその安心と平和とは一体何なのか。