アマゾンプライムに入っていた『パーマネントのばら』を見ました。
映画も面白いし、原作もとても面白い。
サイバラさんの、あのどう考えてもコミュニケーションが取れる生物と思えない異様な顔つきのキャラクターを見てると不安になるので「好き」というには抵抗を感じるところではありますが、読後もずっと心に残る悲しみがあります。
落ちついて見ればこの表紙絵も、異界に連れ出されるようで妙な怖さではあるまいか。
荒っぽい貧しい港町にただ一軒のパーマ屋が、近隣の女性たちの頭をギッチギチのきついパンチパーマをあてるのを一手に引き受けてる、という設定がもう面白いと思うのです。
なぜパンチなのか、それはおしゃれなのか、人生をどういうルートでたどっていくと人はギッチギチのパンチパーマをあてるようになるのか。
町で一軒のパーマ屋は女性だけが集まる場所で、そこでは寄ると触ると下世話な男の話がかわされます。
希望のない町、「ここから出ていけない人」だけが生きている場所で、あのダメ男とこのダメ男のどっちがマシかなあ、と取り替えても見てもどっちも変わらない。
どうせ男はいなくなり、どの関係も長続きしないことをみんな知りながら、少女がおばさんになって、それがおばあさんになってもまだ恋を続ける、その懺悔室が「パーマネント野ばら」。
言うもはばかられるような下品なシモネタの中に通底する「どうせ何も持ってないのだからせめて恋くらいないと寂しすぎる」という切実な気持ちを、あの不気味な絵で描き出されると本当にどういう気持になったらいいものか分からない。
「うっかりいい話にとかしないからなコノヤロー」と、絵にねじ伏せられつつ読むことです。
パーマネント野ばらで希望のない恋をたくさん見ている主人公なおちゃんにも、好きな人がいます。
出口のない生活で、みんなが現状を変えられずに希望のない愛に手を伸ばすなか、なぜなおちゃん一人にだけ優しい男前の恋人がいるのか。
絵の中にサイバラさんの狂気があまりにも明瞭に出てるものだからぼうっとしてると
「あ、この男は高須かっ。大富豪高須克弥かあ」
などと作品外の作者の印象に引っ張られて読んでしまうのです。
そんな古いディズニープリンセスものみたいな話じゃないことは普通に読めばわかるんですが、どうにもこうにも現実世界でインパクトが強すぎる高須西原カップル像の払拭が難しい。
それが映画版では現実感のない菅野美穂の住む高須のなき世界できっちり残酷な落とし前がついています。
「ああそうだ、たしかにどう考えても原作にもこう描いてあった」
と、見ると納得。
永遠に続く愛などないから、パーマネント野ばらは港町に咲く花なんである。
本当に原作通りにきっちりエピソードを積み上げて進んでいるのに、うっかりしてると全然別の話みたいに見える、でも読み返すと忠実に作ってる、というちょっと不思議な経験で原作と合わせて見ると面白い。
『パーマネント野ばら』パレスチナ版とも言える『ガザの美容室』。
美容室でヘアセットしてるうちに外で戦争が始まる、という普通に考えればゾンビ映画みたいなおもしろ設定なんだけど、ほぼドキュメンタリーみたいなタッチなのが恐ろしいところ。
美容室から出ないので見てる途中でちょっと退屈になるが、それでも結構好き。