「おい、どんぐりは食えそうだぞ」
私が作って持っていった弁当を二人で一緒に食べていると、父がいきなり箸を止めて脈絡もなく言った。
ソファの方から一冊の本を持ってくる。
それは市内の図書館のラベルの付いた文庫本で、書名を見ると姜尚中の『母-オモニ-』だった。
「か、かんさんじゅん?」
頬を寄せ合わねば容易に聞き取れなそうなソフトボイスとシリアスに整った顔立ちから、うっかり「文科系マダムの読み物」という先入観を持っていた姜尚中と、また意外なところで出会うものだ。
開いて指し示しされたページに目をやれば、そこには子ども時代の貧困生活の中でなんとか工夫して食事をやりくりした様子が綴られている。
たしかに、どんぐりはつぶして豆腐のように型に入れて固めるとそれだけでよいおやつになる、とある。
でも、どんぐりって言ってもどの木の実かによってずいぶんアクの強さなんかも違うはずなんだよな。
北海道のどんぐりは多くがミズナラであり、あまり食用に向かないのでなかったか。
「うーん、そうか?栃の実はとにかくすごかったぞ」
と澄ました顔で父は言う。
なんでも、たわむれに散歩の途中で拾ってきた栃の実を、外皮だけ剥いて煮物の鍋の中に放り込んで煮て食べてみたそうだ。
「栗をねっとりさせた感じで、口が曲がるほど渋いんだ」
と、心なしか自慢げに報告してくる。
いやいやいや。
栃の実は何か月もかけて、干したり、晒したり、煮込んだり、大変な工程であく抜きしてやっと餅に加工できるって、ちょっとググれば書いてあるではないか。
なんという暴挙。
何十年も交流がなかったので親世代の体力がいかほどのものかまったくイメージできずにただでさえ困惑してるところなのではあるが、それにしても七十代が安全性未確認のものを思いつきで拾い食いするのってそれなりに命取りになったりしないものだろうか。
どういう方向性のお茶目さんだ。
いやー、どうかなあ。
食べやすいものならアイヌの人の食文化の中に残ってそうなものだし、あんまり食用に向かないのじゃないのかねえ。
とりとめない話で濁してとりあえず「父娘拾い食い会議」は終結した。
帰って色々調べてみれば、韓国には「トトリク」というどんぐりの粉を練って固めた食べ物が今もあるらしい。
調べる限りではクヌギの実が多そうだ。
北海道でクヌギの自生してるところなんてあるかなあ。
連れ合いを亡くしてやっと百日になろうかというところで『母』というエッセイを読んでるにも、きっと何か思うところはあるんだろうが、そんな話はとりあえずさておき、奇妙な熱意を込めて食えるやら食えないやらのどんぐりの話に打ち込む、静かに暮れる秋の日である。