Netflix激押しのマーティン・スコセッシ新作マフィア映画「アイリッシュマン」観ましたよ。
贅沢な老いの一徹で、老兵が集まってめちゃめちゃ頑張ったら三時間半の大作になってしまった、というところまで含めて本当に面白い。時間感覚どうなってるんだ。
いきなり本編の話じゃないところからはじめますが、NETFLIXにはスコセッシ監督と主演三人(ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ショー・ペシ)の宣伝用特別映像も入っています。四人でなにやらバーみたいなところで卓囲んでしゃべってるだけなのですが、そのデザート感が最高です。
映画では、それぞれCGによる加工を施して30代から80代くらいまで演じていますから役者の本来の年齢を忘れますが、全員おじいさんなのですよね。
実に見事なマフィア風おじいさんがずらっと4人並んでいます。なぜ出役じゃないスコセッシまでがどさくさまぎれにマフィア風になってるのかはよくわかりませんが、とにかく絵になるちょい悪おじいさん展。
それで何をしゃべるのかって言えば、特殊加工用のレンズがいっぱいついてる変なカメラに慣れて普通に演技するのも難しいことだったけど、とにかく椅子から機敏に立ち上がるとか、階段から軽快に降りてくるとかそういう演技が難しかったよねえ。いやいやとにかく背筋だよ、背筋って伸びないよねえ。とか。激渋の声で普通に老人の会話をしてるのがまあ味わい深いことこの上ない。
そのほっこり特典映像を見てやっとわかることがありました。
この『アイリッシュマン』という映画は、みたことないような不思議なテンポで、独特の絞り出すような時間が流れています。これはいったいなんだろうと思っていたのですが、どうやら顔と仕草があってないのでした。
30代のシーン、40代のシーン、50代のシーン、全部顔は違和感なく作ってあってすばらしい技術なんですが、顔のわりには歩くときに足が上がってないとか、キレるときの瞬発力がちょっと足りてないとか、丸まった背中が厚いとか、少しずつ全部ずれている。
つまりは、演者も監督も気付いていて、これで良しとしたテンポということですよ。
それはやっぱり「その背骨が背負っているのは地球の重力だけではなくて、マフィア映画の歴史でもあるのだから、そのままでかっこいいのだ」っていう、あの四人のおじいちゃんの間で交わされた愛情なのだと思えば、なんというマフィア顔負けのホモソーシャル。
劇中、イタリアンマフィアの仕事を請け負ってはいてもアイルランド系だから冷遇されがちなデ・ニーロが、労働組合の親玉アル・パチーノのボディガードとして認められた日。同じホテルで眠りに行くアル・パチーノが寝室のドアをわざと少し開けておきます。デ・ニーロもそれをしっかり目には留めるんだけどあまり表情に出ない人なので何考えたのかはいまいちよく分らない、というシーンがあります。
映画を見ていくとそれは間違いなく信頼の証であり、最終的に二人は同じ部屋の二つ並んだベッドで仲良くパジャマを着て「おやすみー」なんて言いあって眠るようになります。完全にいとうせいこうとみうらじゅん化するのです。
本当に40代のテキパキ動く役者だったらあのシーンは「君のことは警戒しないからな」っていう攻めのメッセージに見えるのだろうと思うのですが、ふたりとも背中が丸くて動作が重いから、むしろ「ここ閉めて一人になっちゃうの寂しいんだよね」という弱気にとれて、壮年期のイメージとのギャップにちょっと戸惑います。
その戸惑いは、最後、介護施設で死ぬ準備をはじめているデ・ニーロが神父さんに「扉は全部閉めないで」と頼むシーンの孤独にそのままつながって、たまらない気持ちになるのです。若い時代の中にその人の老後の姿を二重写しにするような不思議な撮影法に、図らずもなっている。
美しい絵の中で魅力的な生き物が精いっぱい頑張っているさまを深い共感を持って見ていられるという意味ではちょっと『岩合光昭のネコ歩き』を見るときのような贅沢感もあり(血まみれだけど)、カメラのあちらからもこちらから溢れ出るホモソーシャルを愛でるにも最適であり(血まみれだけど)、そしてマフィア映画でありながらも意外と普通の人が老いと死を見つめる映画でもあるのがかっこいい、と思ったことです。
でもこれって私が今この年齢でみるから贅沢な三時間半なのであって、朝起きてもどこも身体が痛くないような世代が見るにはやっぱり『グッドフェローズ』のテンポの方がいいんじゃないの、と思ったりしなくもないですね。どうなのかしら。
そうはいっても『グッドフェローズ』も二時間半あったんですね。
よくキレる小男ショー・ペシがレストランでいきなり逆上する意味不明なシーンの恐ろしさがタマらない。急にキレるにも若さがいるとは、あの頃まだ誰も気づいてなかったのだ。