久しぶりに『ゴッドファーザー』を見返していたには理由があったのです。
友人が娘(中1)に
「ためしに『ゴッドファーザー』を見せてみたらすごい不評だった」
という話をしていたので
「そりゃあそうだろう」
と即答したのですが、そもそもなぜ「そりゃあそう」なんだろうか、と、我ながら気になったのでした。
私も、見るのは3回目くらいの気がしますが、何回見てもおじさんが多すぎてマーロン・ブランド以外見分けがつかないんだよなあと、ついぞ思ってきたもんです。
今見ると、おじさんたちのシミ・シワ・たるみをかっこよく撮ることにひたすら専念されており、そのあたりに全然興味が持てないお年頃で見ても本当になにがなんだかさっぱりわからん映画であるな、ということが発覚、深く納得したのでありました。
一方で自分が年齢的に被写体に近くなってくると
「あれ、マーロン・ブランド、老け役だけどお肌のハリから察するに実年齢わりと若いぞ?」
なんてことが見えたりして、やっとちょっぴりおじさんの区別がつきはじめたりします。
「お、こっちのたるみは本物だ」
なんて、枯れっぷりを鑑賞するうちに、なるほどこれはなかなか他にはない圧巻の絵面。
そもそも若い美男という話でいけば、青年アル・パチーノが出ておるのではありますが、単なるボンから大物マフィアに脱皮するまでの演じ分けが見事過ぎるあまり今までは逆に同一人物であることをいつも見逃していた節がありました。
なにしろこちらはおじさんの「区別をつける」ほうに集中しすぎていたので「違ってみえるけど実は同一人物」というパターンがあることにまで気が回ってなかったのです。
「アレはコレの進化系である」という理解を踏まえて見ていると、脱皮の過渡期に鼻を折られているせいでずっと片手にハンカチを手放せない、あの不自由な感じなんか実はなかなか良いではないの。
スピルバーグの映画における喘息の吸引器みたいな、成長期の不自由さの表現って見るとちょっとキュンとくるところがあるもんです。
なんなら中年超えても、老眼だ白髪だ乾燥肌だと、成長するのは一生涯大仕事なんであるからして、いくつであろうと呪術的な小物を手放さない人を軽んじるものではないのであるな。
そんなわけで、こちとらだいぶ久しぶりに『ゴッドファーザー』をちょっと楽しめる境地に達していたことを再発見したのでありましたが、同時に気づいたこともある。
中1の女の子がこれ見て全然楽しめなかったとしたら、まあある意味それはそれでめでたいことなんじゃあるまいか。
シミ・シワ・たるみを愛でるより、もっと見て楽しいものが世の中にいっぱいあるなら、それはそっちの方がいいことのような気もするもんねえ。