晴天の霹靂

びっくりしました

急須シークエンスの話 ~なぜだか魅力的なもの

ドラマやら漫画やら、見ているとストーリーとは全く関係なく好きなシーンがある。

 

例えば、家庭でお茶を淹れるシーンだ。ちょっと古い作品に多い。慣れた仕草で急須から気取らないお茶を注いで人に差し出したりする場面を見ると

「ああ、家庭でお茶が生産されているっ」

と見とれてしまう。

 

私はたぶん10歳前後でにお茶が「家庭や人の集まる場所で生産されて無料で供給されるもの」から「金を払って買う商品」へと変わる瞬間を体験しているせいなのか、急須に対して「失われた光景」という思い入れがあるのかもしれない。

 

 

お茶は好きな方だが、私の家には急須がない。一人で飲むならストレーナーつきのカップの方がだいぶ便利なのだ。茶葉を入れてドボドボとお湯を注いで、そのままデスクにもっていって頃合いを見てストレーナーごと引き揚げるだけでちゃんとしたお茶が飲める。蓋の上に出した茶葉を置けるようになっているからいちいち立ち歩く必要がないし、ストレーナーは洗うのも乾かすのも手軽だ。本当に重宝する。

 

 

多めに入れるときはティープレスを使う。ガラスだから匂いがうつらないので緑茶も紅茶も使える。ストレーナーの部分だけ二つもっていて一つは出汁専用、これで昆布と鰹節の混合だしをとると一杯分の味噌汁を作るのにも便利だ。 

 

そんなわけで、先が欠けやすく、場所をとりがちで、洗ったり乾かしたりしにくい急須は、我が家にはない。特に不便はない、どころかうまいこと機能的に暮らしていると思う。

 

さらに最近はあたり茶にハマっている。お茶の粉末にお湯を注ぐだけで飲める、いわゆるすし屋のあがりだ。もはやストレーナーつきマグさえ必要なくなったうえに、あたり茶は濃くておいしい。

 

まったく急須の必要性を感じない日々を快適に送りつつも、やっぱり急須でお茶を淹れる手元を見るとどんな平凡なものでも「姿のいい道具だなあ」と見とれててはしまうのだ。

あの手の中に納まる大きさのものを注意深く傾ける感じとか、左手をちょっと蓋の上に添える仕草とか、手の平に包む湯飲みの感じとか、シークエンスとして大変魅力的に見える。

 

るきさん (ちくま文庫)

るきさん (ちくま文庫)

 

私の好きなタイプの急須シークエンスは漫画「るきさん」にたくさん登場する。バブル景気の時代に都市で一人暮らしを満喫する若い女の子だけど、友達が家に遊びにくるたびに毎回ちゃんと急須でお茶を出すシーンが描きこまれる。

日に何度もちょこちょこと急須を使って、茶葉を出して洗って拭き、ポットにお湯をたして茶筒とひとまとめにしておく、その状態を一日中保っておく手数を無駄とも考えない生活のたまものが、友にふるまわれるあの一杯だ。

 

その無数の細かい手間を想像すると急須を取り巻く文脈の多さにはやっぱり見惚れてしまう。急須を洗ったり拭いたり整えたりしているうちにあっという間に過ぎていってしまうであろう淡い日常の悲喜こもごも。