晴天の霹靂

びっくりしました

『賢者の贈り物』 ~櫛はいるだろ 

クリスマスといえば『賢者の贈り物』という一向にピンと来ない話がある。短編の名手と呼ばれる(らしい)O・ヘンリの小説を乱暴にも記憶だけにたよって再現すると、たしかこんな話ではなかったか。

 

貧乏なカップルが互いにクリスマスのプレゼントを贈りたいと考える。懐の寂しい男性は自慢の懐中時計を売ってお金を作り、女性に櫛を買う。同じく懐の寂しい女性は自慢の長い髪を売ってお金を作り、男性に懐中時計の鎖を買う。そしてクリスマスの日、二人は互いに無駄なプレゼントを買ったことを知ってびっくりするが、お互いへの愛の深さを知る。めでたしめでたし。

 

考えれば考えるほどいろんなところがもやもやする話ではあるけれど、これに対して私が最も昔から考えていた疑問は「櫛はいるだろ!」ということである。

髪を切っても櫛は普通に使うんじゃないか。まさか坊主頭にしたということではなかろうから「おかっぱ頭の櫛」と「存在しない時計のための鎖」が、無用の長物度合いでだいたい同等という結論は無理がありすぎる。それとも、ここで言う櫛というのはヘアブラシ的なものではなくて長い髪をまとめるためのかんざしみたいなものなんだろうか。

 

というような愚にもつかないことを時々考えるのは、私自身が何十年も前に人からもらった半月型の柘植の櫛を持っているからだ。ご多分に漏れず、京都の修学旅行土産である。

年子の兄は、私より一年先に修学旅行に行き、生八ツ橋と、つげの櫛と、刀鍛冶が作ったとか言う眉唾っぽい包丁と、清水焼の茶碗を買って帰ってきた。

「凡百の修学旅行生がみんな買うものをそのまま一揃い買ってくるのっ?」

と、そのラインナップに私は衝撃を受けたものだが、翌年自分が同じルートで修学旅行に連れていかれ、他に選択の余地が何もないのだという事を知る。

 

それで私がもらった半月型のつげの櫛だ。愛らしいちりめんのケースに入ったそれは、正直使い方がよくわからなかった。

こんな形状のもので髪を梳いたことがないし、機能的必然性のある形状にも見えない。日本髪を結った人のてっぺんに似たようなものが刺さってるのは見たことがあるが、たいていの高校生には日本髪を結う知り合いは居ないだろうことを思えば、それほどマニアックな用途に使うためのでもないだろう。

「これは実用品なのか飾りなのか」

と思いながらためしにちょっと髪を梳いてみては「今ひとつ納得いかない」と思ってまたちりめんのケースに戻したりしていた。

 

ところこれが不思議なことに、実用品として未だに手元にあるのだ。

私はある時期に持ち物を全部処分して旅に出るというようなことを繰り返していたので、持ち物の連続性というものが全くないのだけれど、特に気に入っているわけでもないこの修学旅行土産の櫛だけが、唯一10代のころからの連続性を持って未だに手元にある。

旅行に持っていくにも軽くて丈夫で邪魔にならなくて、どこかの隙間あたりに滑り込ませてしまえるので「まあ、捨てるほどのこともないか」くらいの理由で、今の今まで手元にあり続けてしまった。

どんなにホコリだらけの長い髪に通しても絶対折れないほど丈夫だし、髪が短くてあんまり梳く必要もないときでも地肌へのあたりがやさしいから頭皮のマッサージとして気持ちがいい。「なんのために使うものなのかよくわからない」と言いながら気づいてみれば、あらゆる意味で大変に実用的だったことになる。

 

ご家族愛情物語的なものが非常に苦手な私としては「高校生のときに兄からもらった」というエピソードがついて回ることは心に負担ではあるのだけど、どう考えても日本中津々浦々にある物だし、贈った側はとっくに忘れているだろうし、ということを思えば、雑さからくる気楽さゆえに捨てるのも忍びない。

 

自己犠牲をしたすぎてコミュニケーションをミスったO・ヘンリの櫛と、量産型修学旅行生として売りつけられたものを粛々と買ってきた我が兄の櫛。

髪を梳きながらぼんやり思うに、かの女性も「若い頃の自己犠牲エピソードだけ鬱陶しいけど便利だからいいか」などと言いながらなんとなく使い続けて、年齢とともにめでたく自分のために生きる人生を切り開いたのだとしたら、多少共感可能な話に思えるような気もしてくる。

 

 

 

こういう感じのものでしたが、ケースの方は旅行に行く際に邪魔だし汚れるので捨てた(雑)

 

 

この記事を書いてしまってから、kindle unlimitedで久しぶりに読み返したらやっぱり結った髪に飾るものでした。それでもあんまりピンとこない。