晴天の霹靂

びっくりしました

米セレブのひらめき

お米に関して、長年私は馬鹿舌を自認して参りました。

というか、米に関して馬鹿舌なんだから、概ね何に対しても馬鹿舌なのだろうとも思って参りました。

 

なんでかって、毎年秋になると自慢げに店頭に並ぶ「新米」の意味が一度も理解できたことがないのです。

あの小学生の努力賞のようにキンキラ光る「新米シール」の貼ってあるお米を買ってきても

「うーん、うまい。さすが新米!」

と思ったことが、かつて一度もない。

「.……うまいけど、お米ってうまくなかった試しがないしな?」

と思いながら、ハフハフと噛みしめるのみでした。

 

みんな黙ってるだけで、本音は私と同じなんだろうと疑い、季節のたびにしつこく人に聞いてみたりもしましたが

「全然違うよ。新米食べると、もう古い米食べられないもん」

などという驚愕の返事が返ってくるには打ちのめされました。

「もしかしてスーパーの安売りの米ばかり食べているから違いがわかりにくいのではないか」と、わざわざ新潟産の高いお米を取り寄せてみたこともあります。

そのときも「.……うまいけど、お米ってうまくなかった試しがないしな?」と思ったのでした。

ついに私はそのあたりでもう諦めて、お米に関しては私は底抜けに馬鹿なんだろうと納得いたしました(お米以外の点に関しては考えないことにしました)

スーパーの安売りの米が高級米や新米と同じくらいおいしいなら、それ以上に幸せなことなどないのです。

 

それがなんということか。ここ半年くらいですべてが覆されてしまったのです。

きっかけは、買ったらその場で精米してくれるお米屋さんを見つけたことでした。

最初はぬか床用の米ぬかが欲しくて行ったのです。

無料の米ぬかだけをもらってくるわけにも行かないので試しに一番安い米を買ってみました。

「精米の仕方はどうしますか」と聞かれて、何も考えてなかった私は「えーっと、普通に」などとへどもどしました。

店員さんは概ね次のような説明をしてくれたものです。

「普段は白米ですか。うちでは9分づきをおすすめしています。果物が皮のところがおいしいのと同じで胚芽のところに美味しさがあるので少しだけ残すんです」

「あっ、じゃあ。おいしくしてください」

と、いかにも思慮の浅い感じで私はすぐさま迎合いたしました。なにしろ馬鹿舌なので。

 

それから帰宅して、最初にそのお米を食べた瞬間に目からうろこが落ちるほどうまかったかといえば、そう劇的でもなかったようには思いますが、

「最近ご飯が富においしいねえ」と思いながら、毎日モリモリ食べるようにはなりました。

ついでに、新鮮な米ぬかで漬けるぬか漬けも美味しいので、飽きることもなく納豆とぬか漬けと9分づき米で毎回毎回幸せを噛み締める日々。

米袋が残り少なくなってきたら、また同じお米屋さんにいって対して深く考えもせず同じ精米度で同じ銘柄を買い、糠を一袋もらってくる暮らしになりました。

スーパーの特売で買っていたお米よりは1割くらい高いし、玄米の状態の重量ではかってから精米してもらうので量も若干少なくなるのですが、それを考慮したうえで何の不満のない買い物でした。

そうしてある日とうとう思ったのです。

「なんとなく、もうスーパーのお米に戻れる気がしないぞ」

今まで一度も不満なく食べていたスーパーのお米の品質管理が二流だなどと言う気はまったくないのですが、それにしても、

「これは、やはり今までとなにか違うのではないか」という気がだんだんしてきます。

馬鹿舌だと思っていた私に、美味しいお米の天啓が訪れているのではないか。

もしや。

もしや、今年こそは「一度新米を食べたらもう去年のお米は食べられないよねえ」などと、言う側の人間の仲間入りをしているのではないだろうか。

そんな予感に打ち震えつつ、食卓に吹きこんだ夜風の中に秋の声を聞こうとするお盆最終日なのでした。