晴天の霹靂

びっくりしました

墓地をめぐる奇妙な話

しばしば歩きに行く、お気に入りの墓地がある。

新しい墓地のように整理された区画に加工石が整然と並んでるのではなく、いずれも崩れかけた自然石が傾いたりよそ見したりしながら寄り添っている風景が、濃厚な時の流れを感じさせる貴重な場所である。

 

墓地の中心には小さな小屋があって、片腕の欠けた阿弥陀如来がいるのもお気に入りだ。

厳しい条件の中でなんとか生き抜くのに必死だった開拓時代、一帯の人々の精神的な支柱だったのであろうということが忍ばれる簡素で清潔な朽ち方が尊い

いつものように、通り過ぎながら挨拶がてら阿弥陀様のいる小屋にちらっと目をやると脇の方に何か白いものが置いてあるのが目に入った。

そういえば数日前に通りかかったときにも「今日は何か置いてあるな」と思った記憶がある。

スーパーの袋のようなものをちょっと置いた人がいるのだくらいに思っていた。

「まだあるのか」と思って足を止めて確かめて、だいぶびっくりした。

 

遺骨だ。

白い布に包まれた、遺骨。

 

え、骨?

驚きすぎて、思わず何も見なかったかのようにその場からスタスタと歩き去ってしまった。

遺骨の保存に困って誰かが置いていった?そもそも遺骨って勝手にあちこち放置してもいいんだっけ。いや、よくはないんだけど、何か法律的な問題がなかったかしら。見ちゃった私は何かしないといけないの?……っていうか骨?骨の方でも私に「見たからには今後のことよろしくおねがいします」とか思ってない?えっ、なに?

 

私が墓地を好きなのは、慣れた日常生活とは明らかに少しずれた不思議な感覚を味わえるからなのではあるが、こういう領域の感覚はあまりにも想定外で、いつもより歩みが早くなる。

でも火葬まで無事済んだのなら遺骨の供養はどうとでもしてくれる先がたくさんあるだろうに、なぜ墓地の真ん中に置き去りにするようなことを思いつくかな。

などと色々考えていてハタと気がつく。

あ、そうか墓地か。

 

誰かが納骨に来て、墓の中に骨壷を納めて、後に残った骨箱とカバーを、どう処分したらいいかわからなくて阿弥陀さまの小屋に置いて帰っちゃったのではないか。

考えてみれば、縁もゆかりもない人が突然こっそりお骨を運んできて置いていくと考えるよりは、そのほうがだいぶ説明がつく。

それでも倫理的にはどうかと思うが、中に遺骨が入っているわけではないと思うと安堵する気にはなるものだ。

 

そうかそうか。それはそうだよなー。びっくりしたなー。

などと思いながら歩調は普段の速度に戻り、墓地の真ん中だというのにリアルな死の気配らしきものに遭遇すると急にオロオロする自分の心の動きについてちょっと考える。

「もう命が宿っていない以上、単なるカルシウムとリンの化合物。……というふうにはならないものなんだよなあ」

現代人としては、自分をもっとクールで即物的な存在だと思っていたい願望もあるが、全然そんなことはないと揺さぶってくるのが墓地という場所でもある。

 

だけどあれってさ。

誰かが持ち上げてみるまで骨壷が入ってないのかどうか、本当のところはわからないんだよね。