近所に昵懇の阿弥陀如来さんが居る。
人気のない静かな場所にいつも一人でじっと立っている風情が好きで、通りかかると挨拶をする間柄ではあったのだ。
小柄なその人は雪よけであろうと思われる粗末な木造の小屋の中に立っており、小屋の両脇はただ抜いて木枠をしてあるだけの明り取りの小窓がついている。
あるとき、すごいことに気づいた。
小窓から覗くその横顔が、それはばっちりのキメ角度なのだ。
極めて簡素なその小屋を作った誰かの
「この人はこの角度が一番べっぴんさんだから、ここから見て!ぜひ!」
という熱い愛がビシビシと伝わってくる、奇跡のようにびったりの設計の小屋だ。
ああどこの誰かしらないけれど、ものすごく熱烈な崇拝者がいたのだなあ。
そう思うと、またぐっと有り難みがましてくるようで、私はなおさらよく横顔を見に行くようになった。
その後、最近になってもっととんでもないことに突然気づいてしまう。
右腕が根本から欠けているのだ。
「あれっ、昨日まではあったはずだ」
と思って、私は慌てた。
昨日も通りかかって、ちょっと挨拶した。
その時は、たしかにあった。いや、たぶん。
しかし「じゃあどんな印を結んでいたのか」と考えても思い出せないくらい、ちゃんと見ていなかったということも、その時同時に気づいてしまったのだ。
昨日来たときにすでにこうなっていたのに、私が気づかなかっただけかもしれない。
いや、そもそも右手などあったのだろうか。
腕のあったはずの場所は他と色が違うからには、きっと欠けてまだ日は浅いのだろう。
それにしても風化で落ちたのだとしても、小屋の中に腕がないのはおかしい。
誰かが持って帰ったりするものだろうか。
考えるほど、不思議な気持ちになる。
「右腕、どうされました?」
と、聞いていいものやらどうやら。そのきれいな人は黙って左手だけをこちらに差し出している。
眼の前のことなのに、右腕がないのは夢か幻であるような気がする。
あるいは、つい最近まで右腕があったはずだ、ということの方が夢か幻なのかもしれない。
「今日はどうなってるだろう、右腕」
と思って足繁く通っては、小さな幻覚を見るような気持ちで木造の小屋の前に立つ。
あったことが夢なのか、ないことが夢なのか。