友人に会ったらマジマジと顔をみて「灼けたね」と言われて少々驚く。つい最近、冬が終わったばかりだとばかり思っていた。
灼けたと言われたあとに「どこか遊びに行ったの?」などと語を継がれないところが庶民暮らしのいじらしさ。どこぞのバカンスで降り注ぐ日差しを浴びてはしゃいだわけではなく、野面でそのへんをほっつき歩くからいつの間にか黒っぽくなっただけなのは聞くまでもないことである。
いつの頃からか「日焼けは絶対によくない」などと言われるようになって久しいが、私が子どもの頃は、特に子どもは灼けてる方が偉いという風潮はまだあった。
たぶん小学校2年生の時の夏休み明けの学級通信(担任の先生が原稿用紙に手書きしてわら半紙に印刷したメッセージ。ロゼッタストーンではない)に、だいたいこんな感じのことを書いてあったのを覚えている。
曰く「みんな元気いっぱいの顔で二学期に戻ってきてくれて大変良かった。せっかくなのでクロンボ大会をしようかとも思ったが、もともと地黒の子もいるのでやめた。それにしても○○さんの灼け方はすごかったなあ」
40年近く経ってまだ覚えていることから察しても、7歳の子どもでもちょっとひやっとするくらいアップデートが追いついてない価値観の露見ではあったのだろう。危なっかしい大会が行われなくて良かった。
ちなみに「すごい灼け方の○○さん」というのは私のことで、なんでそんな灼け方をしたかというと、一日中海に浸かったまま出てこなかったからである。
別に泳げたわけでもないし、海水浴用の遊具を持っていたわけでもないので、さしてきれいでもない市街地近くの海で一日ただ黙って立っていた挙げ句、真っ黒になったということになる。すごい。
ことほどさように、もともと私は日差しが好きなのだ。
時代とともに気候も変わり、北海道に住んでいても夏の日差しがだいぶきつく感じるようになってきていることに気づいてはいたが
「それでも日焼け止めのほうが日差しより肌に悪そうな気がするけどなあ」
などとうそぶいては毎年どこにもでかけていないのにカリッカリに焼きあがって喜んでいた。
去年の夏くらいになんとなく「もう大人なんだからそろそろ心を改めよう」と日焼け止めを買ってみたものの、どうやら内心ではあんまり好きにならなかったのは、今年もいつのまにか日焼けしてることからも分かる。
全然習慣にはなっていないということだ。
「みんな口を揃えてUVは悪い悪いと言うんだからそうなんだろうけど、太陽がやっと戻ってきたのに、遮るのもったいないよなあ」
という気持ちがどうにもぬぐい切れずにいる。
冬の間は低い角度にしおれた影ばかり作っていた道端の道路標識も、近頃はすくっときれいに伸びて赤塚不二夫のおでんのように陽気に見えるのも素晴らしいことではないか。
「日焼けの止めクリームのことを思い出すのは、もっと夏がジリジリしてきてからでもよかろう」と、今日もなんとなくバカンスならぬ日焼けをする。
今週のお題「おとなになったら」