近頃しきりに100円ショップでおもちゃみたいなピアスを買ってきては解体して、金具を付け替えたり、パーツをバラして余ってる真珠と合わせたり、レジンで作ったガラクタと合わせたり、といった遊びをしている。
しみじみ子どもっぽい「工作」であって、無害で実に楽しい。
そうではあるが、油断してるとうっかり人生の新たなるフェーズと対面もさせられる。
直径2ミリの丸カンのつなぎ目をクイッと開いてビーズなどを入れ、またクイっと閉じる作業である。
薄暗くなってきた時間帯になってくると
「……つなぎ目が見当たらないねえ」
ということに、相成る。
自慢ではないが、子どもの頃からのド近眼である。
視力の問題といえば「遠くが見えない」という状況のことを指し、近くなんか顔を際限なく近づければ見えるに決まってるじゃないかと固く信じて数十年。
いや、しかしね、ここはぜひ考慮しておいてもらいたいところであるが、私は「薄暗い時間帯に」「2ミリの丸カンのつなぎ目が」見えにくい、という話をしているのであって、こんな非日常的なレベルで細かい作業がまだできるという事実をとってもまだ「アレ」ではないことの証左とは言える。
周囲のちょっと年上の世代を冷静に観察するに、「最近目の調子があんまりよくないんだけどまだアレではない」などとグダグダ言い出したらまず間違いなく老眼の初期である。
「なぜ判で押したように全員がそこで一旦現状を否定するんだ、年を考えたらすぐわかるだろ」
と、これまでさんざん楽しませてもらってきたが、一方私は単なる一時的な眼精疲労である(45歳)
あまつさえ、「眼精疲労ならば目薬とか効いちゃうんじゃない?」とつい買ってきたりすらする。
市販の目薬などなんのためにこの世に存在するのか理解できない側の人類として永らく生きてきたものだが、当てずっぽうに買ったわりには、使うとずいぶん気持ちが良いものだ。
一瞬のこととはいえ視界もすっきりさっぱりする。
「ほら、目薬が効くんだからやっぱりアレじゃないんだな!」
などと、うそぶきながらも考えた。
こちとら全身からどんどん水分が抜けていくお年頃。
体中どこだって、水分を補給しさえすれば基本的には快適に感じる道理である。
目薬が気持ち良いことが、アレではないということの証明になるというロジックは成立しない。
実は世界がぼんやりとしか見えなくなること自体はちょっとうれしくもある。
ずっと強度の近眼と付き合ってきた私としては、「見る」事に関する機能が薄れることによって、「見られる」ことに対する恐怖心から少しずつものがれることができるという感覚が昔からある。
「客観性が薄れて世間からどんどんずれる」とも言うが、「自由にやれるようになる」ことでもある。
とりあえず近視用のコンタクトの度数をちょっと下げるかなあ。そういうのって医師の処方なしで勝手にやったらやっぱりまずいのかなあ。眼科とか行きたくないなあ。
などと、結局はやっぱり判で押したようにグズグズは言うのである。