すこしひんやりする雨上がりにベランダをあけると、眼の前には朝顔のプランターがある。
そのわずかばかりの四角い土の中から、生命力を急激に取り込みつつある生態系の匂いが鼻をついてまっすぐやってきた。
しゃがみ込んでつるの伸び具合を確認しながら思うのだ。
「ああ、この匂いは」
この匂いは、自転車にテントを積んで河原やら海辺やら野原やら公園やらを泊まり歩いた、あの毎日の朝の匂い。
今新たに始まらんとする大地の匂い、と。
具体的などこかの山林、どこかの川辺の情景ではなく、世界に寄る辺ないと感じていた青春期の孤独と自由の感覚が、こんな小さなプランターの中にまるまる入っており、それが時を越えて突如飛び出してきたことにびっくりする。
とりとめない感情が、まるで三次元空間からは視認できない平行宇宙のように、これほどの鮮度を保ったまま土の中にしまってあるなんて。
近頃、風呂場の水漏れの問題で連絡を取っている管理会社があんまり馬鹿なので、話すたびに頭痛がひどく、連絡が来れば数日は眠れないし本も読めない散々な状態になる。
しかし、一応のその波がなんとかすぎれば「行ったり来たりしながらプルーストを読み続けている」という状態は、精神の安寧を保つ大きな救いだ。
なにしろ読み終わらないのだから、次は何を読むべきか、という決断のストレスから開放されているのだ。
ずっとずっと円環の中で通底音としての「なにか」が続いている。
その「なにか」の正体は、たぶん最後まで読んだ人だけが持ち帰るご褒美なのだ。
「あれ、主人公ってまだ10代くらいのような気がするけど、この恋愛対象の年齢設定おかしくない?母親以上の歳の女性に惚れているってことにならないだろうか?」
また何か読み飛ばしたかしら、と思って一冊前まで戻って読んだりする。
何もおかしくないのだ。
若い頃の主人公の中には、母性的な女性に執着するためのすべての要素はちゃんと内在されており、その感情が実際に展開されたのが何歳の時点であるのかは、読んでいる方にはいまひとつよくわからないだけだ。
今や野宿の旅などしようと思わない私の朝顔のプランターの中に、青春時代の孤独と自由への憧れが鮮度を保ったまましまってあるのと、同じことじゃないか。
いつどの段階でその感情が展開するのかが、人生で一番重要な問題ってわけではない。
行きつ戻りつ読んでいて、ひとつ興味深いことに気がついた。
プルーストの命日が、私の誕生日でもある。ちょうど55年後の。
「だからどうということもないが」
朝顔の土の上に指をおいて、あの頃の朝露の大地にひんやり触れる。