なんだかわからないが唐突に知人から粉末青汁をもらった。
実家から送られてきたのだという。
会ったこともない他人の親の、無言の圧力がおかしかったので
「四十を過ぎて実家から前置きもなく青汁が送られてくるような人生は、ちょっと考え直したほうがいいのではないか」
と気持ちよく説教をする。
「お前がたまたま実家や親戚と縁の薄い家系だから知らないだけで、実家というのは死ぬまでこういうものなのだ」
と、適切な反論をされてグウの音も出ない。
せっかくだから荷物の中身を全部聞いてみたら、レトルトのカレーと牛丼とぎょうざとチョコレートと本と絵葉書と青汁なのだそうで、期待に違わぬワンダーランドぶりである。
世界中の「実家」というものはおそらく地下深くで接続されており、この世のありとあらゆる「健康によさそうなもの」とか「子どもの頃好きだった食べ物」とか「手軽に食べられそうなもの」とか「単に謎のもの」とかが適当にシャッフルされてダンボールに詰められ、抜き打ちで任意の「子の家」に届くのに違いない。
「だから、この青汁はお前が飲むべきなのだ」
と、おしつけられた。
言われてみれば、世界のどこかの「実家」から、世界のどこかの「子の家」に送られてきたものなら、私も多少は消費に参加する義務もあるのかもしれない。いや、ないんじゃないかな。
この件が悩ましいのは「別にまずくはない」ということだ。
まずくなくて、どちらかといえば健康に良さそうな商品である以上は、手元にあれば飲まざるを得ない。
しかしこの程度に微量の粉にすがるほど野菜不足の生活は送っていないので、興味もない。
「なぜ別にうまくもない緑の水を毎日飲まされているのだろうか」
と思いながら、仕方なく飲む。
ある時から、牛乳に混ぜると多少は味が良いことに気づいて牛乳割りにした。
毎日一包ずつ飲んではいても、それでも時々「緑の液体を飲みたい気分じゃない朝」もあるのだから、なかなか減らない。
しかし「実家」とは、かくも手強いものだったのかと思えばこそ、参加することに意義がある戦のようでもある。
決して勝てない戦いを、時に人は進んでするのだ。
我が家では懸念の風呂修理が始まった。
工事の立ち会いをしなければならぬので家から出られないが、集中して仕事ができるような感じでもないので、ストリーミングで「エクソシスト」をみながらパソコン作業をして過ごした
(よく考えてみれば悪魔祓いを流してる家で風呂の修理をする人も嫌だったろうが、そこまで気がまわらなかった)
いずれは見なければならぬ古典的名作、とは思っていたがちゃんと見ると予想以上に面白くて感心する。
神父は窓から落ち、風呂は工事が長引きそうなことが判明してその日は終了。
それにしてもなかなか絵作りが綺麗で、私が苦手な感じのジャンプスケアもない、真面目な映画だったではないか。
あの性格の悪い監督が撮影していたやたらつまらなさそうな映画はなんだったんだろう。
イラクのシーンがだいぶ長かったのは何の意味があるんだろう。
映画に出てくるジョギングする男性は制服のようにグレーのスエットを着るのはなぜだろう。
そんなことを色々考え込みつつ寝て、起きて、爽やかな秋の朝。
「悪魔というのは案外可愛いものだな。口から害のなさそうな緑のなにかをぺっと出すのが最大の攻撃というのは、ちょっと昆虫みたいで、仲良くなれそうではないか」
まだそんなことを思いながら口元に朝の牛乳のグラスを運んで、ふと手を止める。
いい映画だったが、「エクソシスト」のことを考えながら青汁牛乳を飲むのはさすがにちょっと厳しい。
思春期映画でもあるが、ある意味「実家映画」でもあった。
勝ち目がなく切なくも厳しい。