久しぶりにかぎ針を手に入れたので、勢い余って帽子を編んでいる。
初心者なので、目の拾い方がどうも怪しく、調子よく編んでいても気がつけば勝手に目が増えたり減ったりする。
気づくたびに解いてやり直す、同じところを何度も何度も編み直すという悠長な作業であるが、これが楽しいのである。
もはや完成を目指しているわけではなく、「没頭したい」という欲望がそこにあるだけ。
間違えたら間違えたところまで戻ればやり直せるし、やり直したら今度は間違えないかもしれないというのは、素晴らしいことではないか。
人生だとなかなかこうはいかない、若人よ。
さて、そのように何度も何度も同じところを行ったりきたりしながら一向に完成しない帽子を編みつつ見ているドラマがある。
市原隼人主演「おいしい給食」である。
キー局ドラマではないので、知名度が高いんだか低いんだかよくわかりにくい状況になっているが、私もseason1放送時には全然知らずに、最近になってAmazonプライムでようやく見た。
ネットフリックスなんかで質の高い海外ドラマがほぼ無限に入ってくるようになってしまって日本のドラマを見る機会も限りなく減っているが、しかし常に期待もしているのだ。
ドメスティックだからこそ面白いものの可能性は絶対にある。
……そう、たとえば給食。
絶対に誰もが通って来ている道、いい思い出だろうが悪い思い出だろうが一定期間誰もが付き合わざるを得なかったなかった、あの(野蛮でもある)会食の記憶の共有。
世代によっても地域によっても必ずちょっとずつの差異があり、その差異の掛け算によってほぼ無限のバリエーションがある、あの記憶である。
自分のときの牛乳は「瓶だった」「テトラパックだった」「四角いパックだった」
から始まって、「アルマイトの食器は懐かしい、しかしもっとベコベコだった」というのもあるし、
若者はなんと先割れスプーンを使ったことがないらしいと知って衝撃を受けたりする。
「あー、はいはい食缶ひっくり返すやつ、年に一人は居たね」
など、他愛もないが話し始めれば何かしらの汲めども尽きせぬ話題は出てくるのだ。
このドラマが偉大なのは「ALWAYS三丁目の夕日」にならないところでもある。
市原隼人が、ちゃんと嫌な教師なのだ。
今がどうなのかあまり良く知らないが、少なくても80年代、実際、教師はむやみに威圧的だった。
子供というのは威嚇しておかなければつけあがるのだと、大人も子供も信じていた時代だ。
「あー、こういう先生いたいた」
と思いながら、それでも楽しく見ていられるのは、その嫌な教師が「子供相手に威張るのが楽しくなってきちゃった加虐趣味マッチョ(本当に見ていられない)」ではなくて、
「給食が楽しみすぎてその他のことに興味がない人(じゃあしょうがないか)」だからである。
最近給食を作る仕事をしている人の話を聞いたのだ。
何年勤めていても、給食を作る時、なかでも主食を担当するときは緊張するのだそうだ。
自分が失敗したら何百人分の食事が出せないと思うと、そのプレッシャーにはいつまでも慣れないらしい。
ああ、自分もそんなにありがたいものを食べてたんだなあ、とちょっと反省したものだ。
汁がぬるいだ、献立の組み合わせが変だ、パンがパサパサなのにサイズばかり大きすぎだと、文句の記憶しかないが、
あれだって限られた条件の中で頑張ってくれた人が居るからこそ毎日確実に提供された貴重な食事だったことは間違いない。
大人の目線になったり生徒の目線になったり、今やいろんな視点から検証する、給食の記憶である。
アマプラでシーズン1、劇場版と放送中のシーズン2が見られる。
シーズン1の最初のエピソードは人物紹介があるから他のエピソードより少しゆるいが、回を重ねるごとに面白いので、ぜひとも4エピソードくらいはひとまず一気に見てほしい。
校歌がまたいい歌で、気づけば歌っているので危険。