晴天の霹靂

びっくりしました

宝島珈琲店の午後

散歩の途中、かねがね気になっていた長い煙突がある。

 

いかにストーブの欠かせない北国といえども、FF式の普及により長い煙突をあまりみかけなくなってきてるこの時代、あんなに立派な煙突を燦然ときらめかせているのは、どう考えても珈琲焙煎の工房だ。
よく見れば小さいながら「beans shop」と書かれてあり、「WELCOME」のボードも出ているのではあるが、しかし店名も不明だし価格帯もわからない。
大変に興味はあるがなかなか入りにくい、と横目で見ながら通り過ぎること幾たびか。


春めいてきた午後「何か変わったことが起きてもらいたい気分の日」だったので、ついにその煙突をめがけて出かけのだ。

目印もない住宅街の小さい通りをぬけて「えっとたしかこのへん」と、おぼつかない足取りでせっかくたどり着いたその煙突を、それでも気の小さいわたしはいったん素通りした。
「そもそもこんな素っ気ない店構えのところで個人相手の小売りなんかしてもらえるものか、入る前にもう一度調べてみたほうがよかないか」
などと急な不安を感じたせいだ。

ひとたび通り過ぎて、二軒隣のマンションの駐車場で立ち止まってスマホを取り出した。
だいたいの住所を入力して、「コーヒー豆 小売り」などと検索をかけるが、この時代にこんなことあるかな、といぶかるほど、まるきり何の情報も出てこない。
こうなってくると、あのコーヒー豆屋さんは私の目にしか見えてない可能性すらあるのではないか。

そんな事も思ったが、「何か変わったことが起きてもらいたい気分の日」として家を出てきた以上は引っ込みもつかず、引き返して「beans shop」の看板に向かって突進した。

 

 何が驚いたって、その看板に向かって足を向けたとたん、扉が開いて品のいい女性から「どうぞ」と招き入れられたことだ。
 えっ、待ってたの、私が来るのを待ってたの。いつから見てたの。二軒隣のマンションの駐車場でいじましくスマホ検索してたのとか、もしかして全部みちゃった?
軽くパニックに襲われはしたが、すでに退路のない私は、おとなしくその開かれた扉に向かって進むのみ。

扉の奥は、二人入ればもう圧迫感を感じるくらい狭い空間である。しかし、あろうことか中にもう一人いたのだ。
ダンディなロマンスグレーが「どうぞどうぞここへ座ってください」と椅子をすすめたきた。

 

「えっ、えっ、えっ?」と私は思う。
豆を買いに来たのに、なぜこの商品も価格表もないこの狭い空間で大人二人に囲まれて、とりあえず私は座るのか?
三者面談、あるいは、圧迫面接。いずれにしろ密である。
何か誤解されてたら困ると思って「コーヒー豆の小売りはしてもらえますか?」などと弱々しく聞いてみると、そんなのみんな飲み込んでるから何も心配しないでとりあえず座りなせえ、くらいの喰い気味のテンションで再び椅子をすすめてくる。
「どういう珈琲が好きですか?」
と、ロマンスグレーは言った。

 

ああ、そうそう。よく聞かれるやつ。
ようするに、深煎り派か浅煎り派かを探られているわけであるが、これに答えるのも地味に難しい。
予算の都合であんまりいい豆が買えないときは深く煎ってあるほうが飲みやすいことのほうが多い、と私は思う。
「普段は深煎りを多くのんでおりますが、こちら高い豆ばかり扱っているお店とお見受けしましたので、そういうことであれば安い豆では味わえないタイプの酸味のある豆を提案してもらえるとビクビクしながら来た甲斐あります」
とまで正直なことを言うのは、今はちょっと難しい。

 

「あんまり酸っぱすぎないほうが……」
などと気弱な軟着陸を目指すと、ロマンスグレーは奥の部屋に入っていき、ものすごく品のいいデミタスカップにホットコーヒーを入れてもってきてくれた。
「さすが、おいしい。でももうちょっと深めがいいな」
と内心わたしは思う。
なるほど、実際試飲するとわかりやすい。というか、考えてみれば飲まなきゃわからないのは道理である。
普段は安い豆を買ってきて滴下式でさらっと出して牛乳で割る、などというカフェインの取り方もしてる、などという話もすると、
今度はフレンチブレンドのアイスを持ってきてくれる。たいへんうまい。これは好みだ。

 

「じゃあ、フレンチブレンドを100グラムで」
と、言ったのはなんと私ではなくてロマンスグレーである。
え、私が買うものをそっちが決めるシステムだったのっ?しかもまだ値段わかりませんがっ?
などと、動じている暇もない。
ロマンスグレーはそうしてるあいまにも、別の場所で35年喫茶店をやっていた話、店はしめたが珈琲を飲みたがる常連客のために豆の販売のための小さい店を開いた話。宣伝は全然してないが客はちゃんと来る話、ボランティアで老人福祉施設に珈琲を入れにいくが珈琲の香りをかぐと認知症のお年寄りも元気になるのだという話などを矢継ぎ早に始める。

空のデミタスカップをもてあそびながら退出のタイミングがわからないので、えいやとばかり、ちょっと逃げ出すような勢いで帰ってきた。

豆は100グラム700円。
私の中で「コーヒー豆の上限」と思っている価格が100グラム500円なのでさすがにしょっちゅう通うことはできないが、とにかく望み通りの面白い体験ができた。

 

現代社会の宝島は「インターネットに捕捉されてない場所」にこそある、という自説を再確認できた早春の午後。