俳句の歳時記をよく見るようになると、季節感というデータベースへのアクセスがしやすくなって嬉しい。
季語には、なんとなく心当たりはあるが知らないことがたくさん詰まっているではないの。
冬の季語で「湯たんぽ」を「湯婆」と書くのだということを初めて知る。
「婆」は「たんぽ」とは読まないだろう。
なぜ湯のババアで湯たんぽなのか。
「……フォルム?」
という考えが一瞬脳裏をよぎって、あんまりひどいので慌てて打ち消す。
吉村昭の小説『羆嵐』では、山から下りてきて最初に女性の肉を食べた羆が、女性の匂いにばかり執着するようになり、女性が湯たんぽ代わりに使っていた焼いた石まで噛み砕いて遊んでいた、という空恐ろしくもなにか色っぽい話が書いてある。
湯たんぽには、なにかそういう女性的な連想をさせるものがあるのかしら。
ちょっと色っぽい、でいえば「雪女郎」というのが人気の冬の季語だというのも、はじめて知ってちょっとうれしい。
この冬、他に遊びにいくところもなくて、やっとうっすら雪がつもり始めた広場で妙にたくさんの子どもたちが遊んでいるのを見ると、雪の遊びとソーシャルディスタンスの相性の良さに感心するのだ。
あんまり器用に、離散しながら遊んでいるので、子どもたちの間に私の目にだけ映っていないもうひとりがいるんじゃないかしら、という気になったりも、する。
あれが、雪女郎っていうものか。
今年は冬靴を新調したところ、まだ慣れてなくて道の凍っている時間はとりわけずるずるとよく滑る。
ギリギリの緊張感で受け身を取りつつ、「ころぶばばあ」と書いてお転婆、というのがとっさに脳裏をよぎるのだが、あれは別に冬の季語ではないはずだ。
365日毎日一個ずつ季語が書いてあるので、何も面白いことが思いつかない日に眺めて楽しい。