近頃、絶やさないように花を買っている。
きっかけは猫が亡くなったことだ。
ずいぶん久しぶりに花を買ったら、思いのほか明るい気分になるもので、ありあわせのグラスなどに不器用に活けるのも、毎朝傷んだところ摘んで綺麗に見えるように整えるのも楽しい。
こんな良い物をなぜ今まで気付かなかったのだろうか、とちょっと不思議な気もしたが、思うにどうやら今は破格に安いのではないか。
花を買う習慣があったわけではないからずいぶんぼんやりしたイメージだけど、一番地味でささやかな部類の花束でも五、六百円するように思い込んでいた。
ちゃんと見る習慣がなかった人間が持っていた勝手なイメージでことさら言い立てるのはずっとお花好きな人に対して大変に気が引けるが、
「似たような花ばかりでもそこそこの値段するものを庶民が日常的に飾らないだろう」
くらいの思い込みがあったのだ。
それが、よく見るとずいぶんとバラエティに富んだ花がカジュアルに小さな花束にされており、値段も思っていたものの半分くらいだったりして、文字通り生活に添える花としてとても贅沢なのだ。
これが、一時期ずいぶん報道で見かけたように「コロナ禍でお花が売れない」せいなのだとしたら、決して良い事ではないのだろうが
それにしても、もしお花がずっとこの値段であってくれたら、気付いて部屋に置くようになる人はずいぶん多いのではないか、とも思う。
こんなにも新たなる楽しみを切り開いてくれたお花は、いつか私が思ってたくらいの値段に戻ってそんなに贅沢には買えなくなる時期がくるのだろうか。
そんなことを考えていたら今こそ花の名前を覚えるチャンスだな、と思い至った。
固有名詞を覚えるのって、すごく楽しい。
もやもやっとしか意識に上らなかったものをはっきりと認識できるようになり、その部分の記憶の解像度があがる。
自転車で旅をしてたころは、図鑑を持って木の名前を覚え、雑草の名前を覚え、野鳥の名前を覚えた。
今はほとんど全部忘れてしまったけど、名前というものが世界の見え方を変えるという経験だけはよく記憶に残っている。
猫とコロナという不思議な取り合わせのおかげで、今は切り花の名前を覚える時期が来たってことだろうか。
久しぶりに図鑑を買う。
そうは言ってもやはり一番つつましい花束を選んで買うわけだから、買うたびに脳裏をちらつくのはきらきらと贅沢な事典の写真よりは石川啄木である。
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ」
赤貧にあえいだ啄木が買ったのはどんな花だったか。
そもそも、啄木たるもの、本当に花は買ったのか。
買ってきたらちょっといちゃいちゃできたのにな、と思った程度だったのではなかったか。
買ったとして、いきなりしょぼくれて花を持ってきた夫に、妻は本当にしたしんでくれたのか。
あるいは家にいるのは壇蜜みたいな包容力のある妻でしょぼくれプレイをした啄木、意外に良い思いをしたとか。
はたまたリチャード・ギアばりのでっかい薔薇の花束だったらそれもぶっとんでいていいのだけどそういうキャラではなさそうだ、などなど。
花は心と懐のバランス感覚を抉ってくるので、考え込むとちょっと面白い。