晴天の霹靂

びっくりしました

むしろあれ以来めっきりしわが寄らない

やたらといろんな場所に子どもたちが散見されるので、ああ冬休みに入ったのだな、ということに気付く。あの人たちはなぜあんなにわけのわからない歩き方をするのだろう、人類なのに

感覚神経と運動神経をいかにスイッチングすれば、向こうを向いてるのにこっち方向に近づいてくる、などという事態が起こるのか、カフカ張りの不条理の中を事故を起こさないように注意しいしい歩いていれば、こちらの神経も次第にぴりっとしてきて、さあ年末もあとひと踏ん張り、などという気になったりする。

 

お正月用に、特になにを用意するのでもないけれど、それでも年明け早々からお金を使わずに済むように、あまりバタバタ台所に立たなくてもいいように、というのでちょっと食品を作り置きする感じにはなる。

おまけに去年までは冬じゅう絶やさないでっかい灯油ストーブがあったので、食材を切って鍋に入れてストーブにかけておけば大掃除してる間に何かしらの煮物が出来上がるという雪国らしい環境だったこともあり、筑前煮だ、角煮だ、煮豆だと、気が付けばそれなりの品数ができていたりはした。

さて、ストーブを使ってない今年はどこまでできるものだろうか。

 

思い起こせば「まあ正月だし多少お祝いらしいものも作ろうか」というような試みを始めた一番最初の年、黒豆にしわが寄ったのだ。

「あーあ、忙しい中せっかく作った黒豆が失敗しちゃった」

と少しがっかりしながら食べたそれは、今までちょっと食べたことなかった感じでおいしかった。独特の少しぐにっとしたような歯ごたえが食べ応えもあって味わい深い。乾燥甘納豆の高級なやつみたいな感じだ。

これはすごい調理法を発見した、と思った次の年も満を持して「しわの寄った黒豆」を狙いにいった。思い出しうる限り前年と同じ方法で調理したはずのそれはしかし、どういうわけかふっくら炊けている。

「あーあ、忙しい中せっかく作った黒豆が成功しちゃった」

と少しがっかりしながら食べた。

 

それ以来、黒豆の煮方のレシピが気になって、目につくたびにチェックはするが「ふっくら炊く方法」はあっても「しわが寄る方法」はみかけない。あの食感の妙はあの年にだけ起こった奇跡だったのかな、と思っていた今年、ラジオでこんな話を聞いた。

 

もともとお節に入っている黒豆は「しわがよるまでマメに働く」という縁起物だった。それを一気にひっくり返したのが料理研究家土井勝が考案した「誰でもしわなくふっくら炊ける黒豆の煮方」であり、その功績で今やふっくらレシピが常識になってるのだ、と。

 

それならば「ふっくら黒豆」はある種の長く続いてるブームのひとつであって、あの「シワシワ黒豆」は別に失敗ではなかったのだ。新年に食べるのに気のひけるようなものでもない、となれば今年はまた改めて堂々としわのよった黒豆づくりに挑戦してみるのも悪くないかもしれない。

 

カフカ的行動をとる小学生の間を華麗にすり抜けながら、年の瀬の私はなおもこう考える。それにつけても人類は努力しなくてもしわが寄るのに、いまどきの黒豆は努力しないとしわが寄らなくなったのはいったいどういうわけであるか、若人よ。