晴天の霹靂

上品な歩き方とかを習得できないまま人生を折り返すとは

目の覚めるほど地味な筑前煮を作りながら『ザ・メニュー』について考える

「別に、こんなことしなくてもいいのだが……」

などと心に言い訳をしながら、今年もあれこれとおせち作りの算段をして、なますや黒豆あたりから作り始めている。

いくら単身者だからと言っても自分のためにおせち料理を作るくらいのことで言い訳がましくふるまう必要もないはずだが、どうにも超資本主義のご時世に、GDPに寄与しない生産活動をするってのは誰かに遠慮しなければならないような気持ちになったりしがちでよろしくない。

私はおせち料理を作るのが好きなのだ、悪いか。

 

思うにおせち料理のラスボスは筑前煮である。

できあがりの地味さからは考えられないほど手間がかかることに、毎年改めてびっくりする。

「あんなに時間と手間をかけて作ったのに、なぜ見た目がゴージャス感ゼロなんだ」

と、大晦日が来るたびに大鍋を覗き込んで驚愕するのが恒例であるが、実のところ一番美味しくて、いくらあっても困らないのも筑前煮である。

「あんなに頑張ったのにゴージャス感ゼロ問題」を解決すべく、人参を梅の花の形に切ったり、こんにゃくを手綱にしたり、醤油を薄口にしたり、代々いろんな工夫がされてきたことは知ってはいるが、私は堂々と地味な筑前煮を作ることにしている。

「食べて美味しい」と「ハレのエンタテイメント性」のバランスは作り手ごとに図られるもので、もちろんその匙加減を含めて料理である。

 

2022年に観た印象深い映画の中に『ザ・メニュー』というホラー・サスペンスがあった。

フェリーでしか行き来できない孤島でレストランを営む有名シェフがある日、自分の考える至高のメニューに客を招待する不穏な話である。

思い返せばストーリー上の穴も多い妙な映画ではあるが、何がおもしろかったかと言って、「食べること」と「芸術性」のバランスのどこかで迷子になった挙げ句、全員が馬鹿になっちゃっているところである。

食べることには、原理的には結構狭めの限界がある。

「食べて美味しいと感じるもの」以外のものは基本的には食べられないことを考慮すれば、エンドレスに斬新さを要求されるには、食とはずいぶん保守的な領域だ。

映画の中のマッドシェフも、シェフに無邪気な欲望を突きつける客も、残念ながら馬鹿になっちゃったわけだが、たぶん馬鹿にならないように食べようと思ったら、「もう少しお腹が空くまでまつ」というよりほかに、たいしてできることもありはしないのだ。

 

今年も、この一年で観た映画のことなど振り返ったりしながら地味で面倒くさい筑前煮を茶色く煮しめる。

面倒くさいが、楽しい時間。


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