この夏に引っ越しをし、あたらしく越してきた家ではじめての師走、ネットで近所のお餅屋さんを検索し、今年も正月用の餅を注文してきました。
思い起こせば正月用の餅をお餅屋さんに頼むようになって五年、きっかけは前に住んでいた家のすぐそばにしょっちゅう行列になるレベルの人気のお餅屋さんがあったことでした。
普段はもっぱら和菓子屋さんの様相ではありますが、なんとなく気になったので友人宅と分けあうのを前提でお正月用のお餅を注文してみたのです。
大晦日の午前中、街の気ぜわしいような雰囲気に背中をおされながら寒い中を小走りにお餅を取りに行くと、渡されるのは、ずっしり重く、ほのあたたかく、まだ柔らかなのし餅です。
搗き立てのお餅が大福と同じようにこれほど柔らかいものだとは。思いのほか官能的な触感に興奮気味で包丁で切り分け、ひとつずつラップにくるんでいきます。ひとつくるんではひとつ口に入れ、ひとつくるんではひとつ口に入れ。作業が終わるころには、思ったより量が少なくなっていたものです。
友人宅にもっていく分と分けて袋に入れ、明朝お雑煮にする分以外は冷凍庫にしまうなどするも、結局一週間もしないうちにあっという間になくなってしまいました。
ここから得た教訓はただひとつ。
「うまい餅は余らない」
以来、年末にお餅屋さんにお餅を頼むのは晴れがましい年末の行事になりました。
私を搗き立て餅に目覚めさせた、くだんのお餅屋さんからは引っ越しによって離れ離れになってしまった最初の年の瀬。
できるだけ近所で、できるだけ昔から、個人で細々やっていそうなお餅屋さんを探して目星をつけ偵察がてら行ってみました。
狭い店内に入ると、まるで餅屋の店員のようにふっくふくに輝いた、目の覚めるほど素晴らしい愛想のにじみ出る女性が、たくさんの大福越しに光を浴びて柔和に立っていました。
「ああ、なんという素晴らしい空間だろう。地獄の門番と言うヤツもこんなに素敵な人が入口に立っていてくれたら私も死ぬのが楽しみだ」
と場違いなことを考えつつ、なぜか餅屋で地獄のことを考え始めてしまったことにうろたえ、やや多めに注文をしたのでした。
ついでに、ひとつ百円の、どれも学校帰りの子供が買うような素朴な大福餅を買い、大晦日の午前に取りにきますからよろしくおねがいします、と言い言い、夢のように素晴らしい地獄の門を出たのでした。
家へ帰って、濃いめのお茶とかわいい大福をたべながら友人宅に「今年も良い餅が手に入りそうだ」とメールをするや、なんとも一気に師走が駆け寄ってきたのが目に見えたのでした。
みんなもっと近所の餅屋で正月餅を買わないか。
だって、うまい餅は余らないのだから。