米津玄師『死神』をずっと聞いております。
何回見ても最後で変な声が出る。
米津玄師って人を「なるほどあの声はこの人か」としっかり認識したのって2018年の紅白歌合戦の『lemon』の時でした。
徳島の美術館にあるミケランジェロの『最後の審判』の前で歌っていて、いきなり白いドレスのダンサーが入ってきてカメラ前であんまり激しく踊り狂うので度肝を抜かれたもんです。
「あの白い人はなんだっていきなり入ってきて歌が頭に入らない勢いで一番前で踊りまくっていたのであろうか」
という謎が正月の間脳裏を離れないまま。
「……ベアトリーチェだっ!」
と、しばらく後でひらめいたときの気持ちよさと言ったらなかったのです。
死を悼む歌、最後の審判、白い服の少女。
ダンテ『神曲』の、人生に迷ったダンテが地獄めぐりをした末に、天国から迎えにきてくれる聖女ベアトリーチェだったのではないか!
わかるとまあうっとりする映像で、正月の間何回もNHKのアーカイブでその映像を見なおしたもんです。
なんという世界観。
そしたら今度は『死神』がすごいという噂が流れてくるではないですか。
死神で米津玄師ってどういうことかな、と思ってYou Tubeで見たらそういうことだった。
サゲで「ひょっ」って変な声が出るんだけど、何回も見てると最初から声が出るようになりますね。
「お前かっ、お前くるなっ」
っていう不吉が、もう歌より先に始まってるのが不気味で超いい。
落語だと、一人の人が全部の登場人物を演じ分けるので、見てる人はルールとして
「舞台にいるのは一人だけど、この人が右見たり左見たりしてるのは複数の人物を表現しているのである」
っていうのが、もう前提としてあって、慣れている人ほど勝手に情報の交通整理しながら聞いてるし見ている。
その無意識の壁を、他ジャンルの強引さでもっていきなりメリメリ突き崩してくる「歌ってるのも米津玄師、聞いてるのも米津玄師」現象ですよ。
これ落語だったらルール上こういうもんだから何もおかしなことはないんだけど、でもこれミュージックビデオだし、妙だな。でも噺家のかっこしてるし、末広亭だからいいのか。いやよくないわ。あれ?
とか思ってる間にも、聞いてる米津玄師の方はどうもつまんなそう。
しかし、歌ってる方はノッてて楽しそう。
おやおや、世の中ってわりとそういうもんよね。
噺も佳境の死神呪文「アジャラカモクレンテケレッツのパー」のあたり。
落語家さんの高座で見ると、しょぼくれたおじいさんが死神相手に送る合図だから柏手みたいな大きな動きでしっかり響かせるような仕草であることが多いもんですが、
これが踊る人の所作としてやるとこういう指先の美しさになるかっ、っていう、うっとりする舞踊になっていたりもしてここでも刮目。
この高座って絶対おもしろいと思うんだけど、なんで退屈そうにしてるんだ、聞いてるほうの米津玄師たちよ。
そして合図の手拍子で一人消え、二人消え。
誰もいなくなったところでサラリーマンの米津玄師が足ひきずってついにホールに入ってきちゃいますね。
「え?俺?死神?」
って後ろを振り向く間も歌は止められないところがまた非常にぐっときます。
わかるよわかるよ、だってこれから面白くなるところだからね。
首をクイクイってやるだけで死神に見えるシンプルな仕草も、あれは落語の方ではみかけない形のような気がするけど、落語脳にしがみついたままでも死神に見える不思議。
「あーっ、俺かーっ。仕掛けてる方だと思ってたのに、仕掛けられてる方だったのかっ」
って絶望してる方も
「むひょひょひょひょ」
ってなってる方も、両方とも米津玄師。
からの「ふっ」で、やっぱり奇声が出る超メタ死神でした。
人は一番愉快なときにダークサイドに墜ちるもんだ、もう一回見よう。
っていうか、このひとの死生観どういうことになってるんだろうか。
『地獄変』『煉獄篇』あたりは面白く読んでるけど『天国編』に入る頃にわりとどうでもよくなってしまう、でおなじみの神曲。でもやっぱり、どう考えてもベアトリーチェいてこその神曲なのよねえ(そして佃煮にするほど天使が出てくるのとかはスペクタクルとして結構おもしろい)