晴天の霹靂

びっくりしました

散歩道にダチョウがいる

どうせ私の言うことなんか誰も信じないだろうと思うから安心して言うんだけど、散歩道にダチョウがいる。
本当のことだ。

 

ここらは火山灰の積もった大地で、歩く人の都合なんかおかまいなしに好き勝手に隆起してるし、変なところでぐねぐね曲がっている丘陵地帯だ。

入ったはいいけど行き止まり、という道も結構ある。
そんなはるか昔の火山灰が作った幻惑的な坂の上、すすけた色の春直前の風景の中を、わたしはとぼとぼ歩いていたのだ。

 

完全に油断して歩いていた時に急に目の前にダチョウがいたときの気持ちって、

完全に油断して歩いていた時に急に目の前にダチョウがいたことがある人でないとわからないと思うけど、すごく怖い。
何が怖いって、まず全体のデザインがこちらの暗黙の了解を突き崩してくるってことだ。
鳥なのに人くらいの背の高さで歩いているから存在感はまるきり人だ。

そこいらを気楽に歩いていると、はっきりいってろくろ首なのである。
明らかに艶が足りてないバサバサした羽毛は、なんとなく凶暴な性格を連想させる。
とにかく全体的に唐突で怖い。

 

しかし、一方で黒目がちで大きなうるんだ瞳や、こんな窮屈な住宅街で文句も言わない人柄などを思うと、

あまりにも反射的に恐怖心ばかりを感じてしまうことに、ちょっとした罪悪感をいだかざるを得ない。

隣人ではないか。

 

ムカワリュウを発掘した恐竜博士が、どこかで

「鳥ってのは学術上は恐竜なのであって、そういう意味で今は恐竜の大繁栄時代という人もいる」

というような話をしていたのを見たことがある。

ワクワクする話だ。

小型化した恐竜があちらでもこちらでもピーチクやっていると思って見渡すだけで世界はちょっと斬新だ。
ダチョウとて、鳥と思えばだいぶ怖いが、恐竜と思えば、そりゃまあ首は長くて当然に思えてくるし、わりとちっちゃくてかわいい。


なるほどここが私の太古へのタイムカプセルだったか。

黒い瞳の中にジュラ紀2億年の記憶を見つけだそうと今一度、力を込めてかの走鳥類を振り返る。

 

 二度見しても、怖いものは怖い。

 

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恐竜が小路横切る鳥曇

 

『幽霊列車レストラン』 ~猫が最後に乗る列車

 

世界中のあらゆる猫は、最後の瞬間に列車に乗るのだということを、昨年自分の猫を亡くしたときにほぼ確信しまった。


いい年してファンシーなことを言って人を煙に巻こうとしている、というわけでもない。
あの特別なひと区切りの時間。「こちら」から「あちら」へ移動する時間、動き出した以上もう止められない時間、こっそり盗み出したもののようにどこからともなくぽっと現れ出た時間。
これを「列車」という以上に適切に表す概念が、どうにも他にないように思うのだ。

 

銀河鉄道の夜』はまさにそんな作品で、宮沢賢治はたいせつな友人の喪失を列車での旅として表現したけれど、それをその後でますむらひろしが自分の猫を失ったときに猫の旅として表現した。
そのせいか、昨年以降、あれはどうしても猫の話としてしか、もう読めない。

 

いつの間にやら、猫が最後に乗る列車の話ばかり集めようとしている傾向があって、人間を置いて猫がどこかへ行こうとしている話は何割増しかで高く評価してしまう傾向が、わたしにはたぶんある。
それはさておき、とても印象の強い猫の列車の話をみつけた。

子どもむけの、ごくあどけない怪談集のなかの一編、宮川ひろ「幽霊列車」という作品だ。 

怪談レストラン(4)幽霊列車レストラン

怪談レストラン(4)幽霊列車レストラン

  • 発売日: 1996/09/10
  • メディア: 新書
 

 あまり素敵な文章なので筆写してみたが、原稿用紙換算わずか六枚程度。言葉はとても簡潔な作品だ。
作中の人物は老いた飼い猫の体調が悪くなったと同時に、田舎の老母の体調も悪化し、どちらの生命も気がかりなのである。

 

母は、ことし八十一歳になった。すぐにでもいってみたい思いだが、げんたのことも気にかかる。
「四、五日でもきて、つきそってくれないか」
姉からまた電話がきた。
「ねこのげんたも、ぐあいがわるくてね」
電話口で、おもわずいってしまった。
「ねこどころではあるまいに」
姉のおこった声が耳をさした。
 そりゃあそうだけどさ、と受話器をおいたとき、そこにげんたがいた。

 

ふつ。ふつ。とちぎって投げ合うような、とても短い台詞を織り込まれて小さなドラマが進んでいく。
悲しみを共有してるからって、人は真綿でくるんだ言葉をそうっとやりとりすることに専念するわけじゃない。
「ねこどころではあるまいに」
というぱしっと切れる言葉の中に、出発しかけた列車のホームに立つ見送りの人の落ち着かない心が見える。
なんと端的な詩。


読みながら、げんたを見送るホームの人影にまぎれて、いつの間にかわたしも立っていることに気づく。
君はいい旅をしたか、げんたよ。

 

2万円ほどフィッシング詐欺られたお話~プライム会費のお支払い方法に問題があります。

ネットで買い物するようになってもう随分長いですし、キャッシュレス決済にもすっかり慣れている今日このごろですよ。

フィッシング詐欺のメールなんてしょっちゅう見ます。

「こんな珍しくもなんともないものに、今どき引っかかる人いるんだろうか」

と思いつつ、削除すらせずスルーの日々。

今どき引っかかる人もちゃんといることを、自ら実証しましたよ。

 

 

ショートメールに、アマゾンからおかしなメッセージが届いたのです。

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冷静に見ればひと目で怪しいとわかる、amazon.co以下のドメインが不自然な、明らかな詐欺メールです。

ところがこの時、私はネットで使うカードの切り替え作業を行っていて、各サイトに支払い用に登録してある情報を新しいカードに書き換えるという、非常に面倒くさいことをやっておりました。

だいたい終わったものの、まだKindleで新しい本を買ったとき「支払い方法を確認して再度試して下さい」というエラーが出る状態になっていたので、

「切り替えたはずなんだけど、アマゾンに登録してあるカードももう一度確認しないとなあ」

と思っていたところに、向こうから飛び込んできた、支払い方法確認のメール。

先入観を持って見ると、ドメイン以降とか、案外確認しないものなんですね。

「はいはい、待ってました待ってました」

くらいの勢いでアクセスしてしまいました。

まさか自分が。はっはっはっ。

 

そしたら、結構よくできたページに飛びまして。

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疑問をもたないままカード番号とパスワード登録。その日は就寝。

ネットに登録してあるカードは使うたびにアプリで出金の確認をとる習慣があるので、その翌日Kindleで本を買ったときに、残高がおかしいことに気づきました。

 

11.157円という同じ値段で二度見覚えのない使用履歴。

しばらく頭に「?」が浮かんだあとで、正気を取り戻し、まずカードの停止とアマゾンのパスワード変更。

それから、なかなかつながらない楽天のサービスセンターに電話をしました。

「確定前なのでどこで使われたのか詳細な情報はわからない」ということと「お客様のミスなので補償の対象外」ということだけ言われます。

カード再発行の手順を聞いて電話終了。

それにしても話を聞いてて頭にうかぶのは、「確定前」であり、「詐欺」とわかってるんだから、確定しないでキャンセルしてくれたらよかないの?という疑問(デビットカードじゃなければもしかしたらまたちょっと事情違うのかもしれないですね)。

 

せっかく早く気づいたのにいたずらに確定を待つのも切ないものがあるし、なにかできることがないものか一応確認をとってみるか、ということで地域のサイバー犯罪の相談窓口にも掛けてみました。

結論としては「捜査は可能だが、使われたお金に関してきることはとくになし」ということでした。無念。

とはいえ、警察署の方はちゃんと詳しい情報を聞いてくれたので、打つ手なしとは言っても、情報提供も含めて電話してみてよかったなあ、とは思いました。

 

まさか、と思うようなものバカバカしい手法にひっかかって思うのは、詐欺が付け入るスキって、「リテラシー不足」じゃなくて、「思い込み」だったなあ、というところです。

「ああ、はいはい。これこれ」と思って、ろくに確認しないで大事な情報を扱うような心の油断って、実際あるもんですね。

 よりによってこんなにダサいフィッシング詐欺にひっかるとはなっ!

 

かくて、まだ切り替えも全部終わってないような真新しいカードを停止して、またもや再発行手続きをしたのでした。

詐欺なれば被害額がいくらでもありえたところ、2万円で済んだのだから、詐欺啓蒙講習代1万円と、ブログネタ代1万円だったと思い込むくらいのところです。

ほんと、冗談みたいなところでやられるもんですねえ。

(それにしても本当に奇跡的なタイミングで詐欺メールが届いたのは、よほど前世の行いのいい犯罪者だったんだろうか?)

 

 

 

 

www.npa.go.jp

各地のサイバー犯罪用相談窓口。被害届って出したほうがいいものかどうなのか、と思ったので確認のためにメールしてみたら、折返し電話をくれました。別にできることもなさそうなので、結果的には何もしなかったけど、親切な対応をしてくれたので色々聞きやすかった。

よく喋るイチイの木

やっと雪が溶けてきて、表通り以外の路地も歩きやすくなってきたので、小さい道を遠道する。
このあたりの土の湿り気からすると、きっとまもなく土筆が顔を出すのであろう。

あっちの赤茶の芽は、福寿草が咲くのだろうか。

まだありもしない春の気配を適当に皮算用しながら歩く。
 
 下ばかり見て歩いている私の耳に、突然「小鳥の成る木」の気配が飛び込んできた。鳥が狭い場所にびっしり集まって、甲高くささやき合っている賑やかな声だ。

どこかに一本、ひどく小鳥に気に入られるたちの木があるようだけど、どれだろう。

 

 さえずりに惹かれて、いったん通り過ぎた道をちょっと引き返し、声のする方へ小径を折れた。
「どう聞いてもこの木から聞こえてくるのだけど」
こぢんまりした庭のある民家の、道路側にあるイチイの木のあたりが、あからさまに一番にぎやかなのに、動くものの様子はない。


常緑樹とは言っても冬の活動停止中の樹木である。

こんな荒涼たる針葉樹の葉陰で、一羽も目につかないほどに見事に姿をかくして鳴けるはずもないではないか。
「隣の家の木なのかなあ」
などと思って通り過ぎてみると、やっぱり、にぎやかなさえずりも通り過ぎてしまう。


 どうしても、あの木だ。

あのイチイの中のどこかに、びっしりと小鳥が止まっているとしか、考えられない。
あまり気になるのでまた戻り、横から下から、いろんな方向からのぞき込む。

 

 「ぴたっ」
と鳴き声が止まった。

ええっ、と私はびっくりする。
そっちからは、こっちが見えてるの?こっちからは何も見えないのに?
飛び立った気配はまったくなく、だからさっきまで騒々しく鳴いていた鳥は、そっくりそのまま、まだこのイチイの中にいるはずだ。

え、どれどれ?どこどこ?

ジロジロとイチイを覗き込んでいるうちに、ふと我にかえる。

鳥だって、何か都合あってけたたましくしていたのに、私がしつこいから途中で止めざるを得なくなって、腹を立ててるに違いないのだ。

 

「ごめんごめん。続けて」
反省した私はちょっと後ろ髪ひかれながら、またイチイを素通りしていく。

それでもしばらく、彼らはまだ私を警戒して「シーン」とイチイに擬態したままだ。

楽しいけど、ちょっとさみしい。

イチイが一人で喋ってたのだと、思うことにする。

宝島珈琲店の午後

散歩の途中、かねがね気になっていた長い煙突がある。

 

いかにストーブの欠かせない北国といえども、FF式の普及により長い煙突をあまりみかけなくなってきてるこの時代、あんなに立派な煙突を燦然ときらめかせているのは、どう考えても珈琲焙煎の工房だ。
よく見れば小さいながら「beans shop」と書かれてあり、「WELCOME」のボードも出ているのではあるが、しかし店名も不明だし価格帯もわからない。
大変に興味はあるがなかなか入りにくい、と横目で見ながら通り過ぎること幾たびか。


春めいてきた午後「何か変わったことが起きてもらいたい気分の日」だったので、ついにその煙突をめがけて出かけのだ。

目印もない住宅街の小さい通りをぬけて「えっとたしかこのへん」と、おぼつかない足取りでせっかくたどり着いたその煙突を、それでも気の小さいわたしはいったん素通りした。
「そもそもこんな素っ気ない店構えのところで個人相手の小売りなんかしてもらえるものか、入る前にもう一度調べてみたほうがよかないか」
などと急な不安を感じたせいだ。

ひとたび通り過ぎて、二軒隣のマンションの駐車場で立ち止まってスマホを取り出した。
だいたいの住所を入力して、「コーヒー豆 小売り」などと検索をかけるが、この時代にこんなことあるかな、といぶかるほど、まるきり何の情報も出てこない。
こうなってくると、あのコーヒー豆屋さんは私の目にしか見えてない可能性すらあるのではないか。

そんな事も思ったが、「何か変わったことが起きてもらいたい気分の日」として家を出てきた以上は引っ込みもつかず、引き返して「beans shop」の看板に向かって突進した。

 

 何が驚いたって、その看板に向かって足を向けたとたん、扉が開いて品のいい女性から「どうぞ」と招き入れられたことだ。
 えっ、待ってたの、私が来るのを待ってたの。いつから見てたの。二軒隣のマンションの駐車場でいじましくスマホ検索してたのとか、もしかして全部みちゃった?
軽くパニックに襲われはしたが、すでに退路のない私は、おとなしくその開かれた扉に向かって進むのみ。

扉の奥は、二人入ればもう圧迫感を感じるくらい狭い空間である。しかし、あろうことか中にもう一人いたのだ。
ダンディなロマンスグレーが「どうぞどうぞここへ座ってください」と椅子をすすめたきた。

 

「えっ、えっ、えっ?」と私は思う。
豆を買いに来たのに、なぜこの商品も価格表もないこの狭い空間で大人二人に囲まれて、とりあえず私は座るのか?
三者面談、あるいは、圧迫面接。いずれにしろ密である。
何か誤解されてたら困ると思って「コーヒー豆の小売りはしてもらえますか?」などと弱々しく聞いてみると、そんなのみんな飲み込んでるから何も心配しないでとりあえず座りなせえ、くらいの喰い気味のテンションで再び椅子をすすめてくる。
「どういう珈琲が好きですか?」
と、ロマンスグレーは言った。

 

ああ、そうそう。よく聞かれるやつ。
ようするに、深煎り派か浅煎り派かを探られているわけであるが、これに答えるのも地味に難しい。
予算の都合であんまりいい豆が買えないときは深く煎ってあるほうが飲みやすいことのほうが多い、と私は思う。
「普段は深煎りを多くのんでおりますが、こちら高い豆ばかり扱っているお店とお見受けしましたので、そういうことであれば安い豆では味わえないタイプの酸味のある豆を提案してもらえるとビクビクしながら来た甲斐あります」
とまで正直なことを言うのは、今はちょっと難しい。

 

「あんまり酸っぱすぎないほうが……」
などと気弱な軟着陸を目指すと、ロマンスグレーは奥の部屋に入っていき、ものすごく品のいいデミタスカップにホットコーヒーを入れてもってきてくれた。
「さすが、おいしい。でももうちょっと深めがいいな」
と内心わたしは思う。
なるほど、実際試飲するとわかりやすい。というか、考えてみれば飲まなきゃわからないのは道理である。
普段は安い豆を買ってきて滴下式でさらっと出して牛乳で割る、などというカフェインの取り方もしてる、などという話もすると、
今度はフレンチブレンドのアイスを持ってきてくれる。たいへんうまい。これは好みだ。

 

「じゃあ、フレンチブレンドを100グラムで」
と、言ったのはなんと私ではなくてロマンスグレーである。
え、私が買うものをそっちが決めるシステムだったのっ?しかもまだ値段わかりませんがっ?
などと、動じている暇もない。
ロマンスグレーはそうしてるあいまにも、別の場所で35年喫茶店をやっていた話、店はしめたが珈琲を飲みたがる常連客のために豆の販売のための小さい店を開いた話。宣伝は全然してないが客はちゃんと来る話、ボランティアで老人福祉施設に珈琲を入れにいくが珈琲の香りをかぐと認知症のお年寄りも元気になるのだという話などを矢継ぎ早に始める。

空のデミタスカップをもてあそびながら退出のタイミングがわからないので、えいやとばかり、ちょっと逃げ出すような勢いで帰ってきた。

豆は100グラム700円。
私の中で「コーヒー豆の上限」と思っている価格が100グラム500円なのでさすがにしょっちゅう通うことはできないが、とにかく望み通りの面白い体験ができた。

 

現代社会の宝島は「インターネットに捕捉されてない場所」にこそある、という自説を再確認できた早春の午後。

ネギ畑への唐突な挿し木 ~『秘密の花園』願望を推し進める

グラスに活けていた雪柳の枝は、あきれるほどの勢いで一気に蕾から満開になったあと、それこそ雪の降るような勢いで猛然と散った。

「これこれ君たち、室内であまり自由奔放に舞い散ってはいけないね」
と思ったわたしは、新しく小さな花束を買った。
ピンクのスイートピーである。

パック寿司についてくるガリのような、昭和アイドルのドレスのような、薄くてピンクでふりふりひらひらした生命体だ。
「できるだけかわいいと思われ遠くへ運んでもらわねばならぬという花の使命は理解するが、それにしたって見え透いているのではないかね」

などと指摘したくもなるほどの、率直なかわいらしさアピールに、店先でややも悩んだのだが、連れて帰ってみて水に挿せば実際心はウキウキする。

かわいいものはかわいい。

 

さて、そこでピンクのスイートピーといれちがいにグラスから卒業していかねばらなぬのは、いまや紅白歌合戦ばりに散りに散ってる散りざかり雪柳の枝である。
あらかた散ったとはいえ、まだ小さな白い花はいくつもついている。
「君たちには、いくら散っても問題のない新天地で、ぜひ頑張りぬいてもらいたい」

心の訓示を垂れたわたしは狭いベランダの窓をカラカラ開き、プランターの前にしゃがみ込んだ。

ただ土が入ってるだけに見えるプランター。しかし、私だけはそこにネギの根っこが埋まっていることを知っている。

私にだけみえる「未来の味噌汁用ネギ畑」だ。

 

おもむろに右手に握った枝を一本ずつ、ネギ畑に挿していく。

数ある中でももっともたくましかった雪柳の枝、2020年の年末年始からずっと共に暮らしてきた松の枝、花が全部落ちて何の枝だがさっぱりわからなくなり果てた桃の枝。ひとつだけまだ花穂のついている猫柳。
捨てるに忍びない、まだ生命力の残滓を感じる枝たちを残らずプランターに挿した。

「挿し枝というのはこういうことなのか。これで合っているのか?」

と考えるまでもなく、これはだいぶ間違えているような気がする。


そもそも土の中には、生きてるのかどうかよくわからないネギの根っこが埋めてあるのだ。ネギと桃の寄せ植えというのはさすがにどこの世界にもないんじゃないか。

あまつさえいろいろ面白くなってきてはずみで採取したピーマンの種まで埋まってる。絶対そんな取り合わせの共同生活など起こりえない。

発芽しなければ単に腐敗の原因になるであろうものをそんなにごちゃごちゃ入れていいものか。

こういう、どう扱ったらよいのかよくわからないものに対する私の振る舞いの雑さというのは、我ながらどうかしてると思う。

 

手にした枝を全部挿し終えたら、四角いプランターは原始的な祭祀用の遺跡みたいになった。そして、これは実際、原始的な祭祀のための実験なのである。
「なんか生命って、頑張れるときは頑張れるし、頑張れないときは頑張れないらしいじゃない?」
というぼんやりと伝え聞く噂について、私はなんらかの知識を得たい。
どういう方面でもいいからなにか予想を裏切って驚かされたくて、プランターの中の四角い土についついいろいろ放り込んでしまう。

 

「どんな子どもでも庭を与えておけばわりと勝手に育つっぽい」

という似たような内容の二大児童文学といえば『秘密の花園』と『トムは真夜中の庭で』である。近頃両方とも読み返したが、どっちもやっぱり面白くて感心した。

死んでるように見えてもちゃんと生きている植物には、心の中に止まった時間を持つ動物の生活を修繕して前に進めてくれる機能があるものなのかもしれない。

私のネギ畑は、ついに「未来の味噌汁用ネギ畑」であることを自ら乗り越えて、「秘密の花園(ネギ入り)」へと進化したのである。

 

 

秘密の花園 (光文社古典新訳文庫)

秘密の花園 (光文社古典新訳文庫)

 

 「庭さえ作れば、醜い子もかわいくなるし、健康になるし、性格もよくなるし、友達もできて、人生すべてうまくいくよっ!」という、風変わりな新興宗教みたいに見えなくもないのがおかしいのだけど、実際ある一定の説得力があって実に楽しく読んでしまう。

 

 

トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))

トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))

 

日本における知名度は『秘密の花園』より低いような気がするけれど、作品としてはこちらの方がかなりよくできているように思える。しかし子どもが手に取るには挿絵がなんか怖すぎる気がするのが昔から不思議だった。

 

 

ターシャの庭

ターシャの庭

 

 NHKで取り上げたことで20年くらい前にガーデニングブームを起こした絵本作家ターシャ・テューダーの庭の写真集。庭どころかベランダさえもないワンルームに暮らしていた私も当時2冊ほど買った。あまり深く考えずに読んでいたけれど、花の写真が見たかったというよりは、やっぱり再生への願望だったような気もする。

シン・エヴァンゲリオン劇場版を観てきたよ ~おめでとう!おめでとう!

シン・エヴァンゲリオン劇場版見てきました。

(たぶん、ネタバレはしないと思うのですが、何しろシリーズの最初から最後まで全然ストーリーを把握できないまま観ており、未だに誰が何と闘っているのかすら理解してない有様なので、逆になにか迂闊なことをうっかり書いたりする可能性は否定できません。でも本当に何も理解してないので、普通に考えればきっとだいじょうぶ)


『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告【公式】

 というわけで「むしろ理解なんかするもんか」をモットーに観続けてきたエヴァンゲリオン。最後の最後も、槍がどうしたの神がどうしたの浄化がどうしたの、という点に関しては脳にATフィールドを張り巡らせて頑なに理解を拒みましたが、そんな不肖の観客にも作品は面白かったです。さすがにちょっと長かったけど。

 

キャラクター全員、なんか色々無理させちゃったけど各々ちゃんと収まるべきところに収まらせてやらねばならぬ、という必死の祈りみたいな風呂敷のたたみ方がなんだか妙に涙をそそりました。

わたしなぞは昨日今日エヴァを大あわてでみた部類の人ですけど、それでも「長い時を歩んできたんだねえ……」という感慨にひたらずにはいられない一生懸命さ。

ちゃんとみんな創造主から最後まで大事に扱ってもらえて、よかったよかった。

 

新劇場版の途中からいきなり出てきてずっとニャンニャン言ってた謎の猫娘のことも、わたしは「色々困ってテコ入れのために、いかにもアニメオタクの好きそうなものを力技で投入してみたのか」と思っていたんです。

そんな彼女が今作の最後に冬月から唐突なある二つ名で呼ばれるのをみて、「きっと作ったときの創造主の意図を裏切って、意外な方法で物語全体を救ってくれたってことなんだろうなあ」と、なかなか感動しました。

 あとは、ずっと添え物っぽいキャラとして出ていたペンギンまで、元気に大量繁殖してたのも嬉しかったです。

  

劇場では入場者特典でペライチをもらったんです。

裏には「ネタバレ厳禁、映画を見終わってから開けて」

って書いてあったので、いったいどんな大事なこと書いてあるんだろうと思って素直に家に帰ってから開けましたよ。

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そしたら、さすがの衝撃。何書いてるんだかひとつも意味がわからないじゃないですか。

まさかの、縦読みか?斜め読みか?あぶり出しか?と思ってしばらく見つめてしまいましたが、まあ、なんというか、いつもの人を煙に巻く感じのワケワカランやつでした。

エヴァンゲリオンって結局そんななっ!」

と思いましたが、でもこれで終わりかと思うとそれもなかなか愛おしいかも。

 

 

 

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