晴天の霹靂

びっくりしました

冷凍西瓜はじめ ~買って帰った瞬間からが西瓜です

初物の西瓜を買いました。

昭和の大家族が食べるような大玉を汗だくで抱えてきて、帰るなり何の祝祭感もないままに黙々と上下真っ二つに割ります。

まな板の上で削ぐように皮を全部剥き、端から端まで全部サイコロ状にカット。

家じゅうのタッパーやらバットやらをかき集めて詰め、入るだけは冷凍庫に、入りきらない分は冷蔵庫に、それでも入りきらない分は、腹の中に。

お盆前で、まだそれほど安くはないけれど、この身体に辛い暑さの中でこそ当分の間のアイス代わり、スポーツドリンク代わりと思えば良しであろうと、八面六臂の冷蔵庫の扉をぎゅっと閉めつつ衝動的な贅沢の言い訳をするのでした。

 

しかし西瓜たるもの、食べるには神の食べ物かと思うほど涼しいけれど、買って帰ることの幻覚でも見えてきそうな暑苦しさたるや、一年ぶりの身に染みる衝撃。

 

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馬手スイカ 弓手デイジー 顔マスク

 

猛暑に出番のタイミング

八月になったとたん、暑くてぼーっとしているのだか、眠くてだるいのだか区別が判然としないタイプの猛暑がはじまりました。

 

今年は引っ越してきて一年目の家で初めて迎える暑さなので、家の造りなりの夏しのぎというものを発見する年でもあります。

家の一番大きな窓がベランダに面している我が家では、タオルケットやらカーテンやら、大物を洗って干しておくと、日よけと打ち水効果によって部屋の中に吹き込む風が格段に涼しくなることに気付きました。 

これは一石二鳥の素晴らしい発見、とてもよくできた設計であると、夏のはじめには大いに感動したものです。

 

しかし案の定と言うべきか、一番凌ぎ難い暑さがはじまるころまでにはまんまと家じゅうにある大物という大物を、洗い終わってしまっているのです。

二周目の洗濯に突入しても何も悪いことはないようなものですが、あまりの本末転倒に誰にともなく気が引けると言ったところ。

結局は、ただ扇風機を慕っては添い寝している液状化猫を力なく見やる、いつも通りの北国の夏を迎えているのでありました。

暑いですね。

 

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熱風の中に幽霊出番待ち

 

五七日(いつなのか)はスター登場 ~袖の下はこんにゃくでよろしいか

週末、猫の月命日だったので神社へ行ってきた。

ご近所の神様ゆえ、住所を告げて「うちに帰りたそうにしてたら連れてきてやってください」とねんごろにお願いする。

 

朝晩線香をたき、暑い盛りに花が絶えないように小まめに面倒をみたり、なんやかや手数がかかるせいか、いなくなったという心持があまりしない。

洗濯をしてても邪魔しにこなくなったとか、明け方にフライングボディプレスをかけてこないとか、クリームパンみたいな形の前足をふにふにできないとか、欠伸をしたところに指を突っ込むいたずらをできないとか、生活の折々に「あの肉体がないんだな」と感じることはしばしばある。

それらはちょっとつまらないことではあるのだけど、肉体があってもなくてもうちの猫は相変わらずうちの猫なのは思いがけず面白い現象だ。

 

肉体をなくしたぶんパワーアップして我が家に遊んでいる感覚すらあるものだ。

心覚えのない物音がしたり、室内に気配を感じたりすると「来たの?ゆっくりしていきな」と臆面もなく声を掛けて一向にはばからない。

これがつまりは臨在感というものかと感心しつつ、これほど鮮明なものでもまた、やがて時とともに薄れていってしまうとは信じがたい予感である。

 

お盆が近いせいか、切り花の値段が少し高くなった。

さてこれは困ったことになったぞ、と思いながらも、やっぱり百円くらいのことで無邪気に遊ぶ魂に寂しい思いをさせてはならじ、と己のおかずをもやしに変えてでも買って帰るのである(一部誇張表現アリ)。

 

黄泉の方では死後35日目が閻魔の裁判だという。

七日ごとの裁判の五番目にして著名なる重鎮裁判官の登場である。

人間と猫は同じルートではないというが、それにしてもあの子もそろそろ近くには居るだろう。

 

閻魔は猫好きか。そして傍聴席ってないものか。

 

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えんま様抱っこ抱っこと猫童子

 

冷やし麦湯 ~旅人の飲むそれは熱いのか冷たいのか

今年は麦茶をお湯出しにしたので例年になく味と香りがはっきりしてうまく、飲むたびに少しうれしい。

 

耐熱ガラスのポットに麦茶パックと電気ケトルで沸かしたお湯を入れるのだけれど、当初ちょっと支障があった。

麦茶ポットより電気ケトルの方がだいぶ容量が小さくて、ポットの半分くらいのお湯しか一度に沸かせないのだ。

麦茶を入れるごとに二度もお湯を沸かす気にもなれないので、パックを多めに使って濃く出した後(小一時間でも数時間経ってもたいして構うこたない)パックを取り出したら満タンまで水でうめて冷蔵庫にしまうことにした。

これだと粗熱が取れるのが早くて、結果的に大変いい具合だ。

 

耐熱ガラスの肌に手の平を当てて熱のとれ具合を計っていると、なるほど本来これは「麦湯」なんだな、と納得する。

以前から古い話にはしばしば出てくる、街道の茶屋か何かで歩いてきた旅人に供される麦湯というものが、気にかかっていたのだ。

それは麦からできた何かなのか、麦茶のあついバージョンなのか、なんなんだ。

 

お湯で麦のエキスを抽出して飲料を作るようになってみれば「湯」というのは飲む時点での温度をさしているのではなくて、作り方をさしているのだということが合点がいくようになる。

そもそも、何かを煎じたものが「湯」なのだ。

当然沸かしたては熱かろうが、そのあとは勝手に熱が取れていって常温の飲み物になるのだろう。

井戸水かなにかでちょっと冷やす工夫でもできれば涼を取る贅沢はできたのかもしれない。

要するに私が作るこれは「冷やし麦湯」なのであるぞ、と思って飲むとなんだか急にオツに美味い飲み物に思える。

 

麦湯が出てくるのは何の話だったかしら。

茶店の年寄りと旅人のかけあいなら落語『猫の皿』あたりだろうか、と思って小三治で聞いてみたら、たしかに麦湯を飲んでいた。

仕草を見るに、冷たいものをごくごくという風にはぜんぜん見えないが、熱いものをふーふー、という風にも見えない。

朝煮出した麦湯といったあたりだろうか。

そんなことを考えながら聞いていたら、また新たなる難問に遭遇してしまったのだ。

 

話の冒頭である。

旅に疲れた道具屋が茶店に寄る。

じいさんが出てきてお茶にするか麦湯にするか聞く。

道具屋が答える。

「野暮なようだけどよ、麦湯なんてのもいいね。口がさっぱりして。」

 

麦湯が「野暮」っていったい何。

 

野暮問題は非常に難しいものだ。

ざる蕎麦を噛まずに飲むのがかっこいいと思ってる人たちの言い出す「野暮」なんて理屈で考えて分かるわけない。

とは思うものの、まったく根も葉もないわけでもなさそうなのが、面倒ながらもつい考えたくなってえしまうところではある。

 

さて私が仮説として思いついたのは、「茶」は淹れたての熱いものなのではないだろうか、ということだ。

炎天下をてくてく歩いてきて「かーっ、あついねどうも」と言いながら、汗を拭き拭き淹れたての熱いお茶を飲むのが粋で、冷めた麦湯ごとき飲むなんてだらしない、くらいのところではないか。

何しろ風呂にも適温で入らないような人たちだ、「やせ我慢」という文脈で解釈するとありそうな気もする。

 

してみると冷蔵庫以降の現代人はずいぶんと堕落していることになるのだな。

野暮なようだけどよ、冷やし麦湯なんてのもいいねえ。腹がタプタプして。

 

 

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麦湯冷え吐息濃くする冷蔵庫

 

 

 

 

 

 耐熱ガラスの麦茶ポットは、カルキの結晶なんかがつかないし、茶渋のつきやすいゴムパッキンなんかもないので、アクリルの冷水筒より衛生的に扱いやすいのが意外だった。

『自転車日記』 ~付着せる漱石

kindle unlimitedで年代順に全部読めてしまううえにどれも面白いので、近頃は夏目漱石ばかり色々読んでいる。

 

子どもがお気に入りの絵本を持つように、決まった場所でアハハハと笑いたくてついつい繰り返して読むのが随筆『自転車日記』である。

英国留学時代、夏目発狂の噂まで出るような鬱状態で引きこもっているのを心配した友人によって当時最新流行の乗り物、自転車に挑戦させられた顛末が記されている。

 

文鳥・夢十夜・永日小品 (角川文庫)

文鳥・夢十夜・永日小品 (角川文庫)

 

 

ともかくもちょっと外へ出て運動でもしたまえということで、先達に誘い出されてまずは自転車屋へ行く。

女性用の自転車を勧められるのを退け、ギーギー怪しげな音のなる「いとも 見苦し かり ける 男 乗り」を入手して練習を始める。

平地では一向に前に進む様子が見られないために、坂の上へ連れていかれ、ともかくも下へ向かって、ススメーっ、と号令されるのだ。

坂となるとさすがに自然法則が働くので前進した。

ここが一番私の好きなところだ。

 

されど も 乗る は ついに 乗る なり。 乗ら ざる に あら ざる なり。 ともかく も 人間 が 自転車 に 付着 し て いる なり。 しかも 一気呵成に 付着 し て いる なり。

夏目 漱石. 文鳥夢十夜・永日小品 (角川文庫) (Kindle の位置No.3548-3551). KADOKAWA / 角川書店. Kindle 版.

 

アハハハハ。

ここで声を出して笑うために何度も読み返してしまう。

自転車に一気呵成に付着している夏目漱石、時に34歳である。

 

それにしても何度読んでも不思議なのは、ハンドルこそしっかり握っているものの「鞍に尻を下ろさざるなり。ペダルに足を掛けざるなり」とあるところだ。

尻と足が浮いてたら、いくら坂でもさすがに前進しないのではあるまいか。

一旦本を置いて宙をにらんで状況を想像するに、

漱石、吹き流しみたいになってんのか?」

という風景しか考えつかない。

いや、まさかね。

 

アハハアハハハハ、と何度も笑いながら読みながらがらしばらくしてようやく思い至った。

彼は、小さいのだ。

最初に女乗りの自転車を勧められたのは、一般の英国人向けにつくられた自転車では、尻をのせると足がペダルにつかないのではあるまいか。

しかし、彼は「軽少 ながら 鼻 下 に 髯 を 蓄え たる 男子」であるから、とそれを断って大きな自転車を選んでしまっている。

 

昔は子ども用自転車なんてものがなかったから、足の届かない自転車に乗るには身体を横にずらしてサドルを避けフレームの隙間から車体にまたがる「三角乗り」という乗り方をしたものだ、という話を、私は父母からよく聞いた。

漱石も、本来なら三角に乗ったほうがいいくらいサイズが合っていなかったのかもしれない。

片方の足をペダルの上にふんばって重力に任せて坂を下りはじめたら最後、もう片方の足も、尻も、倒れるまでどこにも届かないのではあるまいか。

 

帝大出のスーパーエリートとして国の期待を背負って英国へ赴いたはいいが、あまりの物価の高さに学費まで節約して一人下宿にこもって本を読み、

少ない資金から個人教授をつければなんだか寸借詐欺みたいな漠然とした扱いを受け、

道を歩けば見上げるような大男からの露骨な人種差別にさらされて、

下宿の粗末さにも寒さにもじっと忍の一字、

そんな中でもとにかく成果を上げて帰らんと孤独に肩ひじ張り続けた小男である。

 

その一方で、洋行に憧れ続けた病床の正岡子規から、ロンドンの逸話はおもしろいからぜひ書き送ってくれろとせがまれて、「もっとも不愉快な二年間」をこんなにもひょうきんな文章にして書き送っている。

そして漱石は神経と体力をすり減らして寿命を縮め、子規は再会を待つことなく死ぬ。

それらのことを思いあわせるとずいぶんといじらしい、やさしい随筆にも見える。

 

漱石がどんなに小柄で、どれほど自分の小ささを思い知りながら暮らしたかに思い至れば、自転車をめぐるこの珍妙な顛末はまたより一層面白い。

女性用の自転車を選べないほど男一匹と気張って暮らしていた偏屈の中にこそ、胃弱の文豪夏目漱石が居たのかもしれない。

 

あんまり顔の造作が立派なのでうっかり忘れているが、そういえば漱石は小さいのだ。

 

 

自転車日記

自転車日記

 

 

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白日の一気呵成にカラー咲く

 

猫の降る夜

いつも通り寝る前に本を読んでいた。

扇風機の音だけがパタパタ聞こえる中、漱石か何か気楽に読んでいたのだ。

開け放った窓の外に、ちょっとだけ熱の冷めた北国の夏の夜らしい気配が確実にある、静かな良い夜だ。

 

突然、本の向こう、部屋の真ん中に黒猫の像がパッと見えた。

「空中に猫がいるっ!」

驚きのあまり妙な音が口から洩れる間に、猫はずんずん重力を得て足の上にずどん、と実存の迫力を込めて落ちた。

「ちょっと大丈夫?」

私は懸命に猫の顔を覗き込もうとし、猫は懸命に顔を背けようとする。

 

我が家は長押に引っ掛けるように棚板をつって天上近くに手作りの本棚を設置しているのだ。

それはキャットタワーと接続してあり、猫が自由に行き来できるようになっている。

明らかに、猫はその本棚から降ってきた。

 

問題は、彼女が足を滑らせて落ちたのか、はたまた猫としての能力を試すために自主的に飛び降りたのか、ということだ。

たかだか集合住宅の天井高なので、運動能力の高い猫であれば飛び降りてみたくなる高さであるようにも見える。

しかし不本意に落ちたのだとすれば、しかも着地点で寝そべった人間でも踏めば、うっかり脚をくじいても不思議はないくらいの高さともいえる。

 

キャットタワーがまどろっこしくなって今後は一息に飛び降りることにするつもりならこちらも寝る場所やらなにやら考え直さないといけないし、

足を滑らして落ちるようなよっぽど野性を欠いた猫なのだとしたら安全策を考えてやらねばならぬ。

「あんた今落ちたの?降りたの?」

ねえねえちょっと、と問い詰める飼い主を後目に、さかんに毛繕いするやらソワソワ忙しそうなそぶりをするやら、懸命にごまかす様子を見ると、どうにも落ちた過失を照れているようにしか思えない。

 

うふ、うふふふふ。

「マロー、寝るよー」

隣の部屋にいそいそと出かけて行った猫に声をかけて照明を消すと、部屋は闇夜に沈んだが、今日は一緒に寝に来ない。

目が覚めたら、それでも朝日のあたる部屋に澄ました猫はちゃんといた。

「足グニってしなかった?」

と蒸し返せば、相変わらずヨソヨソしく黒い顔をして目をそらすのだ。

 

動物写真家の岩合光昭さんによれば、猫は傷つきやすからからかっちゃいけないんだそうだ。

それはそうだろう。どんな生命にも尊厳は大事だ。

「ねえねえ、それにしても落ちたの?降りたの?」

分かってはいてもやっぱり思い出すと面白くて、朝から猫の尻を追いかけまわすのをやめられない。

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書を読めば雷火のごとき猫のふる

 

青ぽさぽさの夏の花

青紫でポサポサとした、花だか穂だかよくわからない変わった花を買ったのは、形が猫じゃらしに似ていると思ったからだ。

買って帰ってみると、がっしり太い茎には松のような細い葉がびっしりついていた。

水に浸かると傷んでしまうだろうからと全部取って活ける。

 

驚いたのはアッと言うまに水が濁ることだ。

朝晩冷たい水に変えているのに、すぐに変色してしまう。

おかげで一緒に水に放してあった、トルコキキョウやらデルフィニウムやら、細い茎と薄い花弁をもつ、いかにも弱そうな花たちがすごい勢いでしおれていってしまう。

 

葉を摘み取った切り口のあたりを焼いてみたり、氷を足してみたり、色々手を尽くすが、弱い花たちは枯れ果てて瞬く間にグラスの中は青ぽさぽさだけになってしまった。

「君は何か毒でもあるのかね?」

朝晩水を変えて大切にしていた他の花を駆逐してしまったことにまったく怨みを持たないとまでは言えず、

「ちょっと困ったものを買ってしまったな、どおりでいやに安かったもの」

などとずいぶんな考えもよぎる。

 

部屋に置く花はまた新たに買って違うグラスに活けた。

そうして、青ぽさぽさは玄関に移す。

日の射さない玄関に居てびくともしない、とても丈夫な花だ。

最初は鬼の金棒みたいなシルエットだったものが時間が経つと少しずつシュワシュワが伸びて線香花火のようにもなってきた。

可愛くない訳じゃ、ないんだよな。

誰とも親しめず自分たちだけ残ってしまって寂しいだろうか。

図鑑で探しても、ネットで引いても名前の分からない花、検索ワードは「青 ぽさぽさの夏の花」。

他者と親しまない性格の、君の名前は何だ。

 

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怪談を聞くや名前を知らぬ花