『ゴジラ-1.0』を見てきたよ。たぶん、私が人生で観てきた中で最も不快な映画のうちの一本であったような気がしました。
最初のうちには「ゴジラを愛でる映画なんだからゴジラさえ可愛ければいいんじゃないか」と思っていたので、特攻隊の神木隆之介の髪がなぜ長いんだとか、やっぱりセリフは全部説明なのね、とか、細かいことはできるだけ気にしないで見守るように心がけていたんです。
ところが、自分の子どもではない赤ん坊を抱いた浜辺美波が帰還したての神木隆之介の家に転がり込んでそのままずるずる居つこうとしたあたりから雲行きが急速に悪化します。
居候を決めこもうとすることに文句を言う神木隆之介に向かって「あたしにパンパンでもやれって言うのっ!」と言い返す浜辺美波。その後に続く、一緒に暮らしてもひと間しかない焼け跡の家をカーテンで仕切って寝る露骨な純潔アピールといい、そこからどんどん聖女化していく役回りといい、あまりのキャラクター造形にイライラしすぎてせっかくのゴジラの姿もゆっくり観てられないストレスが募ります。
若く美しく最大の理解者である浜辺美波を聖女としておくべく、実際的な生活力の役回りを任されているのが隣に住む安藤サクラです。こちらは性的に見えないように所帯臭い格好をして、好意を持たれない程度には不遠慮で嫌味なことを言い、「肝っ玉かあさん」という機能に特化したオバサンです。
その配置をしたうえで、疑似家族はもたらしてくれるけど処女であり続ける浜辺美波にセックスワーカーを侮蔑するような発言をさせれば「母、聖女、娼婦」の機能を全部キレイに分割できて「美しい日本の伝統的な家族観はちゃんと守られましたね」ということなんだと思うんですけど、およそ信じがたいほどキモいですね。
神木隆之介が戦場のPTSDで性的に不能になっていて、平和な家庭生活を送りたいのにどうしてもしっくり行かない、という話なら同じ性嫌悪的な設定でも十分面白い話になったと思うのですが、どういうわけか「僕の戦争はまだ終わっていないのだから美波ちゃんの純潔を守るのだ」の謎ナルシシズム文脈になっているあたりが、本当に、心から何を描きたかったのか。
挙げ句、僕の戦争はまだ終わっていないからもう一回特攻に行ったけど、パラシュートがついていたから良かったです。さすが戦後に生まれた民間企業の知恵は素晴らしい、って言われてもね。敗戦から学んだ教訓はパラシュート一個で、あとは玉砕作戦とまったく同じことをやってるってのは、そんなに喜ぶべきことなのか。
かくして男たちはかっこいい特攻を繰り返し、運良く生き残ってかえったら処女が無償の大きな愛で迎え入れてくれる。最後、なんとなく感動的な感じで終わるところまで含めて、全体にものすごく嫌でした。
でも2023年の日本でこういう映画が「感動的な娯楽」の文脈で出てくるんだな、ということを確認しとくのはいいことだと思うので、気になる人には是非観てほしいとは思った。