ありとあらゆる意味で「今さらっ?」という感じでありましょうが、やっと見ました『君の膵臓をたべたい』。
Amazonプライムで鑑賞。
面白かったのでちょっとびっくりした。
こちとら年が年ですから、
「ラノベみたいなタイトルで、美少女が可愛い盛りに死んじゃう難病ものだろう、気の毒気の毒。へっ!」
という極めて汚れた気持ちで見始めるわけです。
その点に関してはまったく予想を裏切らない、本当にそのまんまの展開なんですが、それよりずっと大事なことには、主役の二人の非現実感のハマり方がすごかったのです。
主役の浜辺美波が「嘘みたいにかわいい、わざとらしい女の子」を億面もなく全力で表現しており、それをクラス一番で地味な男子高生役の北村匠海が本当にハラハラする感じで受けてるのです。
「このハラハラする感じはなんだろな……」
と思って考えてたら東出昌大に風味がよく似ているのですよね。
黙って立ってるだけで、無自覚にふらふらと良からぬ方に進んで行きそうな危なっかしさが全身から漂っています。逸材。
この二人が画面上でクラシカルな少女漫画みたいな押したり引いたりをずっとやってるのを見てると、
「なるほどこの美少女は、”ぼく”が寂しい青春をこじらせた結果見えてきちゃった幻想なんだろうな」
ということでだんだん納得し始めます。
浜辺美波は「難病の美少女」として画面に映ってるのではなくて、あっという間に失われてしまう「時間」の寓意なのだとすれば、過ぎ去ってゆく時間について描いた普遍的なストーリーなのであり、私がごとき青春大幅通過組にも十分胸にしみてきます。
浜辺美波がわざとらしく非現実的であるほど、それに振り回される”ぼく”の姿には切実なものが感じられて、不自然さが「むしろいい!」
青春は、失われてしまう。
孤独であっても、少なくても図書館と本の中に逃げ込めば素晴らしい夢を見ていられた時代は失われ、どうやったらそれらフィクションの中から現実の生活を輝かせるだけの胸の高鳴りが出てくるのかまったく思い出せない大人になってしまう。
そういう映画としてみると、本当に面白かったのです。
ただ、そうだとするとどうしても納得いかないところが一箇所。
旅行に出た浜辺美波の荷物の中に”ぼく”がメディカルキットを発見してしまうシーン。
注射器と、ぶどう糖と、あと薬やら医療器具やら色々入っているのです。
彼女の病気が、具体的に糖尿病だとするとだいぶ色々意味が変わってしまうんじゃないか。
あの場面ひとつで、この映画全体が「糖尿病は適切な治療を継続していてもすぐ死ぬ病気」というはっきり間違えたメッセージを伝えてることになりゃしないかと、途端に気になって仕方ない。
あのシーンだけは、なにか別の道具で彼女の闘病の苦しみを暗示させるわけにはいかなかったろうか。
「人付き合いの苦手な高校生が孤独をこじらせて結構危なかっしい目にあったりしたけれど無事大人になる。覇気のない社会人生活を送る中、ひょんなことからあの頃の輝きを思い出してもう一度自分の殻をやぶってみようと思いなおした話」としてすごく楽しんでいたのに、たった一つの小道具で映画全体の意味が「いろいろ設定の不自然さが目につくよくある難病モノ」に変わって見えてしまうので、本当にあそこだけ、ちょっと残念だったよなあ、と思うのでした。
でも基本的にはびっくりするほど楽しんでみた。
図書室とか本棚とかは、映ってるだけで三割増しいい映像に見える魔力ありますね。