『ジュラシック・ワールド』の新作を観てきて、恐竜以外のシーンはほぼどうでもよかったけど、恐竜がたくさん出て来るシーンはこの歳になっても意味もなく「良い!」ことに感激した夏。
こちらの理解を超える規模で何かがでっかいってありがたいことですね。
そんなことを考えていたら漫画『恐竜大紀行』がkindle unlimitedで全部読めることに気づいてしまいました。
表紙といいタイトルといい、素敵です。
1988年から89年にかけてジャンプで連載されていたというので、世代によっては知る人ぞ知る漫画なんでしょうか。
私は恐竜に特別思い入れのない子どもだったので全然知りませんでしたが、ちょっともったいなかったな。
ジュラシックパークの一作目が1990年ですから、スピルバーグがリアルな動く恐竜で世界をびっくりさせる前夜の作品ってことになりましょう。
みてきたように、何気ない日常のワンシーンを恐竜の独白入りで紹介してくれるのが、本当に面白い。
興味深いのは、恐竜全般がわりとセンチメンタルなのです。
公開中の『ジュラシック・ワールド』で”最新の恐竜”をみてきて思ったことには、恐竜って結局まあ、そんなにたしかなことはわかりようがないんだろうな、と。
硬い組織は化石化して残るから、「だいたいこういうサイズの生き物がいたっぽい」ということは確からしいけども、そのでかい骨と骨がどういう角度で接続されていたのか、とか何色なのかとか、どれくらいの速さで移動できたのかとか、そのあたりは結局憶測で、その憶測の部分に、時代時代で憶測する人のロマンが入るのでありましょうよ。
だからどこぞの街でビルとビルの間を飛び移るアクションをする恐竜もありっちゃありなのかもしれないし、夕日に染まる平原を観ながら食物連鎖の中に消えていった友人に思いを馳せる大型恐竜もありなのかもしれない。
なにしろ「骨が出てるのは確かなんだから、まるっきりの絵空事ってことではないだろう」っていう気迫が、恐竜さんのいいところですね。
今生きる人の「こうであってほしい!」という願いを受けて、恐竜たちの生命力は宿るんではあるまいか。
さすがのヤンキーカルチャー時代、ティラノサウルスがモノローグで「このアマ!」とか言ってるのが斬新でありました。
翻って、ジュラシック・ワールドは基本的に「意思の疎通のとれない恐竜たち」の感じが良かったし、とりわけシリーズ一作目のモササウルスの問答無用感は最高。