晴天の霹靂

びっくりしました

豆子と石原兄弟と自転車と

朝家を出たら、公道に出るすぐのところに昵懇の子ガラスがいた。

相変わらず、草むらの中にひとりでぽつねんと立ってじっとしている。

鳥なんだから、地べたにいつもいることはないじゃないか。

「おはよう」

私は今日もナンパの声をかけるのだが、ぴょんぴょん、と無精そうに跳ねて距離をとる。

近頃朝はやくベランダに来て鳴いているのは、この子だろうか。

いやいや。実のところ、ぼんやりのこの子がうちの部屋の高さまで飛べるのかどうかは甚だあやしいところではある。

するってえと、初夏の頃からうちに来てプランターの豆苗を掘り返して豆を食べていったりするのは、この子のお母さんなのかな。

「じゃあ豆子、行ってきます」

やや迷惑そうにしている子カラスに向かって一方的に友達風に振る舞いつつでかけた。

 

いくらもいかないうちに、子ガラス三兄弟が並んで電線にとまってるのに遭遇した。

「え、こっちとあっちは別の家族だったの?」

驚いて立ち止まってじっと見る。

家を出たばかりのところと、数百メートル移動した角のところ、二箇所で子ガラスをよく見かけるのは気づいていたのだけど、ぜんぶ同じカラスだと思い込んでいた。

三兄弟は真っ黒な姿で行儀よくならんではいるものの、両端はちょっと口が空いていたりして、いまひとつぴりっとした感じには見えない。

言うもなんだが、どことなく大黒柱を失ったときの石原兄弟の様子をおもいださせる風情である。

この子たちは、いったいいつまでセットで行動してるものか。

「学校なの?」

団体行動をちょっとからかって声をかけたりなどしていたら、すぐ後ろでものすごく重いものが落ちる音がした。

真後ろで「べちゃっ」と聞こえたのが怖くておそるおそる振り返ると、二分の一カットのりんごが路上に落ちているではないか。

何処から降ってきたっ?

見上げると、そこには決然たる様子の大人のカラスがいる。

親ガラスにりんご爆弾を落とされたのだ。

りんごが降ってエウレカどころではない、頭に命中していたら結構な惨事であった。

すいませんすいません、とつぶやきつつ猛烈な勢いで退散した。

 

きっと親ガラスがあんな結構なごちそうをゲットできたので、子どもたちが分け前をもらおうとしてたまたま勢ぞろいしていたところだったんだろう。

そんなパーティータイムに私が居合わせた上に、からかったりしてグズグズしてたから、やむを得ず親鳥は大事なりんごを武器にしてまで私を追い払う方を優先したのだ。

とても悪いことをしてしまったが、あの様子ならりんごはまだ十分食べられるはずだ。

子は頼りない様子だったが、親の方はやはり勇気も決断力もあるものだな。

 

「しかし、豆子」

と、私はひとり角を曲がって歩きながら考える。

本当に豆子と石原兄弟は、別の家族なのだろうか。

とりわけぼんやりしていつも地べたで鳴いてばかりいる豆子が、家族からはぐれてしまったのではないか。

カラスの縄張りの広さはよくわからないが、子だくさんのカラスが二家族住み着くには、ちょっと距離が近すぎるような気がする。

「豆子は石原兄弟のところに帰らないで、ひとりでやっていけるのか」

 

夏休みの朝なので、カラスの心配する私を後目にたくさんの凛々しい自転車が元気よく駆け抜けていく。

あっちもこっちも、独り立ちのための冒険の季節。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新しい友だちの予感

うちの近くにはカラスの親子が住んでいる。

雛鳥が巣から出られるようになって飛行訓練をはじめた初夏の頃から、私は顔見知りだった。

通りすがりに子ガラスが地べたにいて、見事なだみ声で鳴いているのを

「おお、なんだどうしたどうした」

と声をかければ、道の反対側から母ガラスが鳴いて呼ぶのに何度か遭遇している。

子育て中の頃よりはだいぶ呑気になっているとはいえあんまり我が子のまわりでウロウロされるのも嫌だろうと、名残惜しく立ち去りつつも、汚い声で鳴くときの口の中の鮮やかな色やら警戒心の薄い不慣れな様子やらは見るからにかわいらしくて気になる。

「お母さんあっちだって。頑張れ頑張れ」

と声をかけたりなどしていた。

 

今日久しぶりにあったら、あいかわらず不器用なチビは道端の草むらの中にぬぼっと立って、ぽかんと口を開けていた。

どうも、カラスにしてはあんまり賢くもなさそうな様子が、我が家に住まうぬばたまの猫を思い起こさせて親しみが湧く。

「あれ、今日はお母さんどうした?」

立ち止まって声をかけるが、周辺に見守ってる親鳥の気配はまったくない。

あんまりじっと見つめられるので困ったようにピョンピョンと跳ねて離れ、手近な手すりの上にとまった。

どうもまだ飛ぶのは得意でもなさそうだし、私に好奇心もあるらしい。

距離を保ったまま私も同じ手すりに寄りかかって、かけていたマスクを外しちょっと話しをする。

「一人なの?飛ぶのうまくなった?」

声と顔を覚えてもらって、友達になりたいのだ。

カラスの友達というのは、昔からちょっと憧れだし、カラスは人の容貌を覚えると聞く。

くりっと首を傾けて、私の方を見るチビは嘴の横のオレンジ色の幼児色がまだ取れきっていなくて愛らしい顔をしている。

「うち、あそこの上の部屋だから今度遊びにきて」

ちょうど見えている我が家を指差す。

そうやってしばし二人で手すりに持たれて話をしていたが、やがてチビはふわっと不器用に飛んで離れた。

 

今日で、だいぶ仲良くなれたかな。顔覚えてくれただろうか。

新しい友だちができたかもしれない予感に、だいぶウキウキしながら、先程カラスに指さし教えた自分の部屋へ帰宅する。

 

『エルヴィス』~ダサカッコイイの謎に迫る

 

『エルヴィス』見てきました。

いやあ、楽しかった楽しかった。


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プレスリーって私にとっては、親世代のスターであり、情報の入り順として「田舎のプレスリー」あたりを先に認識してしまったせいで、完全なイロモノ枠だと思っておりました。

ド派手で肥満のおじさんがクネクネ歌っているのを真顔で見たところでどうしていいやら、と困惑していると、本当にかっこいいと思っている世代たる親なぞは

「『監獄ロック』でも聴いてみろ」

などと言い出すわけです。

素直に聴いてみるのはいいが、

「やっぱり見た目通りにダサいじゃん」

なんてリアクションに困ったものでした。

 

そんな私の思い出とは関係なしに、映画の中にいるエルヴィスという人はまだ名前のない感情の中で困って立ち尽くしている徒手空拳の若者です。

ステージの上でだけその感情をぱっと爆発的に表現できる能力含めてなんとなく人を魅了するところは、どうやらたしかにある。

そうしてどのステージまでいってもずっと寄る辺ない青年のままでいつづけて、ついには使いつくされてなくなってしまいます。

なるほど、これはたしかにダサくて、意味不明に気になって、居るだけで人を困らせる存在ではあったろう。見てられないが、見ていたい。

若くもないし、世代でもない私ですらだんだん心が動かされてきて、「誰だってみんな、まだ名前のない感情の上に立っているんだから、私もかくやっていこう」なんてちょっと興奮したりして。

そういうふうにむやみな感情移入をして、いくばくか人生が変わったみたいな気分で映画館出てこられるのは、まさに映画の楽しさではないか。

 

しかしあの程度のクネクネ踊りでパンツ脱いじゃうくらい客席が狂乱するって、どれだけ抑圧的な時代なのかとは思ったな。

 

 

身も蓋もなく龍角散

歳をとると思いがけないことが色々起こるもの。

昭和52年生まれ、近頃起こったファンタスティックな事件と言えば

「普通に実用的な意味で龍角散を買うようになった」ことだ。

今となっては「あの缶がレトロでかわいいのよぉ」というしゃらくさい動機から買って喜んだりしていた時期もあったことをお天道様にお詫びしたい。

龍角散は最強である。

 

そもそもが、普通に喋ってるだけなのに突然喉のあたりになんらかの異変が生じて「なんかわからんが、今死にそうだっ」となる現象は本当にここ数年のことだ。

単に体中から水気が失われつつあるという単純なことではあるが、それにつけても、喋る器官と食べる器官と酸素を取り込む器官をひとつで済ませるなんて設計ミスにも程があるというものだ。

40過ぎると折に触れて毎日が命がけすぎる。

 

龍角散が素晴らしいのは、あの致命的な粉なのである。

ただでさえ季節ごとにパニックを起こしがちな喉の粘膜に、自虐的に細かい粒子が張り付くことで、本格的な危機を感じせしめる。

「あ、今度こそダメだもう無理だっ」

と喉に全神経を集中してからの、有効成分がじわじわと粘膜に吸収されて行く喜びが、だらけた喉の司令塔を大変ぴりっとさせる。

どんなのど飴よりも、龍角散

 

家の外では、ちょっと高いけど龍角散ダイレクト。

映画館で、片腹痛い感動シーンになると盛大にむせる傾向のある喉には、カバンに龍角散トローチを入れていくと顰蹙を買わずにすむのだ。

平和は大事。

 

 

思い起こせばいつも眠い

今年も気温が上がるのが早かったので「また猛暑か、これは大変」などと思って冷凍用に経口補水液のゼリードリンクを買っておりました。

ちょっと高いのだけれど、去年の夏など思い起こすに、事と次第によっては命にかかわらんでもないから、ということで冷凍庫も大入りです。

そうしたらどういうわけか数日前から、冷凍飲料など見たくもないくらいにいきなり気温が下がり、ぐっと北国らしい快適な7月の訪れ。

子どもの頃の「夏休みの前半」を思い出すような、ちょっとワクワクするほど良い陽気なのです。

 

ここ数年来、気温が30度を超えると基本的にずっとだるくてずっと眠いのは熱中症の初期症状であろうと思って暮らしていたわけですが、急に気温が下がって快適になるとなんとなくほっとしてそれはそれで結構眠い。

猫もこころなしか、よく寝ているように思うのでありました。よかったね。

 

業者みたいな経口補水液の在庫を抱えて、猛暑は帰ってくるのか来ないのか。

阿弥陀如来の右腕の夢

近所に昵懇の阿弥陀如来さんが居る。

人気のない静かな場所にいつも一人でじっと立っている風情が好きで、通りかかると挨拶をする間柄ではあったのだ。

小柄なその人は雪よけであろうと思われる粗末な木造の小屋の中に立っており、小屋の両脇はただ抜いて木枠をしてあるだけの明り取りの小窓がついている。

あるとき、すごいことに気づいた。

小窓から覗くその横顔が、それはばっちりのキメ角度なのだ。

極めて簡素なその小屋を作った誰かの

「この人はこの角度が一番べっぴんさんだから、ここから見て!ぜひ!」

という熱い愛がビシビシと伝わってくる、奇跡のようにびったりの設計の小屋だ。

ああどこの誰かしらないけれど、ものすごく熱烈な崇拝者がいたのだなあ。

そう思うと、またぐっと有り難みがましてくるようで、私はなおさらよく横顔を見に行くようになった。

 

その後、最近になってもっととんでもないことに突然気づいてしまう。

右腕が根本から欠けているのだ。

「あれっ、昨日まではあったはずだ」

と思って、私は慌てた。

昨日も通りかかって、ちょっと挨拶した。

その時は、たしかにあった。いや、たぶん。

しかし「じゃあどんな印を結んでいたのか」と考えても思い出せないくらい、ちゃんと見ていなかったということも、その時同時に気づいてしまったのだ。

昨日来たときにすでにこうなっていたのに、私が気づかなかっただけかもしれない。

いや、そもそも右手などあったのだろうか。

腕のあったはずの場所は他と色が違うからには、きっと欠けてまだ日は浅いのだろう。

それにしても風化で落ちたのだとしても、小屋の中に腕がないのはおかしい。

誰かが持って帰ったりするものだろうか。

考えるほど、不思議な気持ちになる。

「右腕、どうされました?」

と、聞いていいものやらどうやら。そのきれいな人は黙って左手だけをこちらに差し出している。

 

眼の前のことなのに、右腕がないのは夢か幻であるような気がする。

あるいは、つい最近まで右腕があったはずだ、ということの方が夢か幻なのかもしれない。

「今日はどうなってるだろう、右腕」

と思って足繁く通っては、小さな幻覚を見るような気持ちで木造の小屋の前に立つ。

あったことが夢なのか、ないことが夢なのか。

『ソー:ラブ&サンダー』 ~いや、たぶん私の理解力のせい

 

どうにも暗いニュースばかり多いので、馬鹿みたいな気持ちになりましょうということで『ソー:ラブ&サンダー』を見てきました。


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タイトル見てるだけでだいぶ馬鹿みたいな気分にはなれてお得なんだけど、もはや面白いのかどうかすらわからなかった。

あのユニバースは、誰が誰で何がどうなってるんだったか?

 

画面がチャカチャカしてるので疲れ過ぎて案の定途中でいったん眠ってしまったのだけど、私が思うに、たぶんつまらなかったわけではない。

ジョークとしてちょっと滑ってるように見えるシーンも結構多くはあったけど、だからとして全体として滑っていたわけでも、たぶんない。

「しかしまあ、なんか色々手に負えなかったなあ」

と思いながら自転車漕いで帰ってきた。