晴天の霹靂

びっくりしました

『コロナ時代の選挙漫遊記』~四年に一度の百葉箱

しばらく前から選挙用掲示板がしかるべきところに設置されていることに気づいてはいたが、今日、前を通りかかったら、ポスターが2枚掲示されている。

帰りに見たら3枚に増えた。

しめしめ、はじまったな。

 

わりと選挙が好きなのは、投票日には普段入れない小学校に入っていけたり、選挙特番が面白かったりするからというのが元々の理由だった。

投票日の朝早くにでかけていくと、あちこちの家からぞろぞろと「普段はあまり一緒に出歩かない初老の夫婦づれ」みたいな人たちが歩いて出てきて最寄りの小学校に整然と吸い込まれていく。

穏やかなゾンビ映画みたいに奇異な風景で非常に気に入っている。

 

投票を済ませて小学校の掲示物を見たり、うさぎ小屋を見たりしながらぶらぶらして途中でパン屋さんで朝食を買って帰ったりなどした日には、こんなにいい日曜日というのもあまりない、という気がしてくる。

そんなこちらの穏やかさからは一転、夜には延々と選挙特番があり、日に焼け、声も枯れて憔悴しきって脂光りする映えない男女が、まさに最後の力をふりしぼって喜んだり落胆したりしている。

恥辱にまみれても人前に立っていなければならない瞬間の人間の顔を見るのが、悪趣味だけど私は好きだ。

まさに人生悲喜こもごも。

 

ところが、選挙特番派の有権者としていつも感じる大きなジレンマもある。

地元選挙区への関心が湧いてこないのだ。

全国区で放送されるときに注目される大物政治家のいる選挙区とか、各党党首とかを見てるのは面白いのだが、もっとも身近なはずの自分の投票区は「与党が取ったか野党が取ったか」の数として確認する程度で、実態あるものとして今ひとつピンと来ない。

さて、本来一番おもしろいはずのものを余さずおもしろがるには、私にはいったい何が足りていないのだろうか?

ということで、手に取った『コロナ時代の選挙漫遊記』である。

 

選挙を追いかけて日本全国あちこち取材してまわった記録はどれも面白いのであるが、その面白い所以はやはり「直接自分の目でみる」からこそなのだというのが読むとよくわかる。

そうであれば、遠出しなくても直接自分の目でみるのが容易な地元選挙は一番安上がりで面白い道理ではないか。

生活者としてはそこらへんで候補者を見かけても「うるせえな」くらいのことしか思わないとは、我ながらなんたることか。

 

そんなぼんやり有権者にも先達はあらまほしきことなり、「そんな食い込み方があるのか!」とびっくりしたくだりがある。

「まずは各陣営の事務所めぐりをしてみよう」という文章。

こんにちは~とか言いながら選挙事務所にふらっと入るという、思ってもみなかった戦略だ。

 

これから 選挙 漫遊 を 楽しも う という 人 に オススメ なのが、 各 陣営 の 事務所 を 訪問 する こと だ。「 ハードル が 高い」 と 思う 人 は、 遠く から 事務所 の 外観 を 眺め て みる だけでも いい。 陣営 ごと に 雰囲気 が わかる。 少し 慣れ て き たら、「 こんにちは ~」 と 受付 に 顔 を 出し て みる のも いい。 ドア を 開け ば、 選挙 事務所 の 中 に どんな 人 が 集まっ て いる のかが ひと目 で わかる。 雰囲気 も わかる。
  事務所 に 行っ て 何 を 話し たら いい のか わから ない という 人 は「 候補者 の 政策 が わかる よう な 資料 は あり ます か」 と 聞け ば いい。「 資料 は 渡せ ない ん です」 と 言わ れ たら、「 どんな 政策 に 力 を 入れ て いる のか 教え て ください」 と 聞い て みる と いい。 どこ の 事務所 も 喜ん で 丁寧 に 対応 し て くれる はず だ。 門前払い する よう な 事務所 は「 身内 や 一部 の 有権者 しか 相手 に し て い ない」 と 考え て 差し支え ない。

 

「いや、さすがにそんなことしないだろ。こちとら初めての美容室に入るにも店の前を十回もうろうろする気の弱さなのに」

と思いはする。

でも自分の選挙区で、家の近くにある選挙事務所に対して

「ひょっとしたらこのままふらっと入っていっちゃったりもできる場所」

という意識を持ってみると、じっさいちょっと見え方が違うようにも思う。

そうだよね、考えてみれば私が当の有権者だもんな。

 

あとは「選挙公報を、答え合わせのために四年間とっておく」というのも、毎回やろうやろうと思っているのに、どうせ見直さないと思って途中で捨ててしまう。

今回は取っておこう、そして今回の選挙と、さらに次の選挙までの間を楽しもう。

 

民主主義の政治はちゃんと見張ってる人がいないとどんどん悪くなるというのはここ十年くらいでずいぶん学んだことだけれど、悲観ばかりすることでもないと思うのは、それこそまさに民主主義にとって決定的に重要な学びだよな、と思うからでもある。

まだ間に合うのであれば、それはいいことじゃないか。

あと未だにたいていの小学校に百葉箱があるのは、ほんとうにびっくりする。

 

「だって寒いんだもん」と君は言う

天気予報で「急に寒くなる」と言っているなと思っていたら、律儀なもので本当に急に寒くなった。

部屋をうろうろしている猫が、私が座ったと見るや、すぐさま膝に乗ってくる。

おお、そうかそうか。寒いのか

彼女はむくむくした冬毛が生え揃い、今や最高のなで心地だ。

気分屋で、撫でられることを嫌がる時も多々あるのだが、どう考えても撫でられんがために生まれてきたとしか思えない、大層毛並みの良い猫である。

「けづることをうるさがり給へど、をかしの御髪や」(若紫)

などと、源氏物語ごっこをやるにも良い。

たまたま覗き見した幼女が可愛かったから拐ってきていい頃合いになったら手をつけるとは、想像しうる限り最低の男だな、と思っていたものだが、寒さに乗じてふっかふかの猫をぐりんぐりん撫で回していると、光源氏的な心持ちもわからんでもない。

毎日ご飯もあげてるし、トイレも掃除してるし、ドアも開けてやってるんだから、ちょっとくらい撫でさせろや。うりうり。

 

ところへ、有機的なつながりに興味を持たない電子レンジが無愛想にチンとなる。

すまんすまん、そういえば珈琲を温めていたのだ。取りに行ってもよろしいか?

不満げな顔をする猫をなだめて膝からおろし、珈琲を持って戻ってくると、猫はヨーヨーのごとく速やかにまた膝上ポジションに収容される。

膝に柔らかく温かくしっくりした重みのある生命体、手のひらに湯気のたつ珈琲。

パソコンの画面を眺めながら、時々猫の背中を撫でると、お愛想に指を舐めて返事をしてくる過不足ない情の交流。

生活が完璧な形になる瞬間である。

 

ところへ、完璧な生活に興味を持たない洗濯物がカタンと無愛想に落ちる。

すまんすまん、秋の風が強いのだ、取りに行ってもよろしいか?

極めて不満げな顔をする猫をなだめて膝からおろし、落下した洗濯物を回収するためにベランダに出る。

運悪くプランターに落下した白いシャツは洗い直し、色物の方はまあ何事もなかったことにしてそのまま室内干し。

ひとしきりバタバタした後で席に戻ると、猫は若干疑わしい顔をしてこちらを見ている。

「もういいよ、ここ。ほれどうぞ」

猫が丸くなりやすいように気を使って座り直し、ポンポンと居場所を整えてやると、なんとなくもったいをつけてゆっくりとのってくる。

機嫌をとるために、猛烈に喉の下やら耳の後ろをやらを掻いているうちに、ようやく機嫌を直してゴロゴロ言い始め、我々の時はまた完璧な瞬間まで戻る。

肌寒い一日、安心して眠る猫、温かな珈琲、言葉にされることのない愛情。

 

こうして飼い主は、「実はトイレに行きたい」と告げるタイミングを完全に見失う。秋である。

『DUNE/砂の惑星』 ~色々ハラハラしたけど私は楽しかった

『DUNE/砂の惑星』を見てきました。

私はすごく楽しんで見てたんだけど、冷静に考えるといろいろ心配。


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この公開に合わせて原作(文庫で3分冊)を読むやら、前作のデビット・リンチ版『DUNE』(駄作の呼び声高し)を読むやら、『ホドロフスキーのDUNE』を見るやら、だいぶ予習して行ったのです。

その私でギリギリ、劇中の誰と誰の関係性がどうなっているのかやっとついていける程度だったくらい、とにかくこの映画一本で説明しなければならないことが多いのです。

何も知らずに劇場に行ったら、たぶんキョトンとしてるうちに終わる。

しかも見終わってびっくりしたことには、

「さあ貴種が流離したきた、ここからやっと英雄譚が始まるよ!」

というところで終わるではないですか。

パンフレットを買ってやっと二部作品として企画されていたことを知る始末です。

言ってよ先に、始まる前に終わったからびっくりしたじゃないの。

 

何が心配って、二部作というからには、この一作目の興行収入が全然ダメだったらそのまま「なかったこと」になる可能性もゼロじゃないことです。

冷静に振り返って、原作を読んでない人が急に見に行って「おもしろかった!次も楽しみ!」となるには、説明過多のうえにねじれたりよじれたり裏返ったりが多くて整理が難しいというのに、大丈夫なのだろうか(近頃は情報盛り込みすぎの映画にわりとみんな慣れているから大丈夫なのかしら?)

 

映像でみると原作よりさらに鮮明に感じざるをえない危なっかしさもありました。

架空の惑星とはいえ、あきらかに貴族的支配層的雰囲気のヨーロッパ人が、中東系アジア系民族の住む砂漠へ行って、そこで戦って人一人殺したら「ジハードの戦士として覚醒した!」というところで今回の作品は終わっちゃったのです。

「このご時世に映像で見せつけれられると60年前に大流行したSF小説だと思って読んでたときよりはるかに現実的なショックがあるなあ」

と劇場で結構ドキドキしたのですが、そのざわつきを製作者がどれくらい自覚的に言及してるのかが現時点では不明確でした。

そのへんも含めて、やっぱりちゃんと完結まで公開してもらわないと私の口が開いたままになってしまうので、本当に頑張ってほしい。

 

はたまた、いっそのこと振り切ってある程度原作やこれまでの経緯とか知ってるファンに向けて作っていこうと思うのであれば、せめてパンフレット!

せっかくあれほど衣装やセットを作り込んだのだから面白いつくりようがいくらでもあるだろうに、なぜ数枚の劇中カットと、キャストとスタッフがお互いに褒め合うインタビューだけで構成してしまったのか。

もっと、羽ばたき飛行機の設計図とか、砂漠の民族が住んでる家の見取り図とか、おそらくはホドロフスキーの時代から膨大な蓄積がある緻密なビジュアルを、多少とも見せてくれればいいではないのっ。

 

というわけで、手放しで褒めるにはちょっとためらうし、誰が見ても面白いとまでは思い難いんだけど、

でも私の世代には「ナウシカっぽいもの」が実写でたくさん出てくるところやら、いちいちのデザインの作り込みの細かさとか、キャストの表現力とか、そういうもので原作を読んでいたときの想像力を補完してもらえるのは本当に楽しい経験でした。

 

 

 

 

 

 

ロマンスの秋 ~エミューと少年

小学校の近くを歩いていたら、敷地のまわりの柵みたいなところに男子児童が一人で腰掛けておりました。

とくに周囲に友達がいる様子でもなく静かにしていたのが、何を思ったか誰もいない歩道に向かっていきなり大音声で呼ばわることには、

「いつかお会いしましょう。付き合ってください!」

……いや、順番。

 

秋のもの寂しさをかこつ私が最近久々に夢中になった一連のロマンス劇がありまして、それが熊本のエミュー23羽脱走でした。


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ちょっとずつ捕まっていく様をいろんなニュース動画で楽しみに見ていたのですが、まさに恋愛群像劇を見るときめきにあふれていたのです。

 

相手の気持ちがうまく図りきれないタイプの人は、無理な距離の詰め方をして、お互いいたずらに傷つくだけで結局物別れ。

逆に、上手に捕まえる人は、相手の様子をじっと見ていて「今だ」というタイミングでパッと近づいて迷いなく抱きしめます。

エミューの方もほとんど暴れることなく、抱きしめられて安心したふうにおとなしくなる様子を見てると

「末永くお幸せにね」

などと思っては盛り上がったものでした。

 

例えば、私が思うにこの完璧なバックハグは『ゴースト ニューヨークの幻』のろくろのシーンです。

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当時の若者たちは甘く切ない「アンチェインド・メロディー」とともに見せつけられたデミ・ムーアの愛らしさに刺激されて、いきなりショートカットにするほどの衝撃を受けたものでした。

運さえよければひょっとすると人生にはこういう瞬間も、あるとか、ないとか。

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一方こちらの緊張感のあるシーンは、『カサブランカ』の飛行場のシーンですね。

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リックのこともラズローのことも好きなのだけど、どちらを選んでもなにかを失う美女イングリッド・バーグマン

君は永遠に行ってしまって、きっともう会えないのだね。

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愛はどうやら思い切りとタイミングであり、そしてそれらは脱走エミューから学ぶことができるのだ。

虚空に向かってひとり愛の告白の練習をする秋の少年よ!

 

 

 

 

『ホドロフスキーのDUNE』 ~陽気な妄想の大きな功績

アマゾンプライムで『ホドロフスキーのDUNE』が入っていたので観たのですが、これが妙な具合に面白い映画ありました。


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フランク・ハーバードのSF小説『DUNE 砂の惑星』に感銘を受けたホドロフスキーが映画化をしようと決意する、1974年にはじまる話です。

カルト映画で名を挙げ始めていたホドロフスキーが、ギーガーやらメビウスやらダリやら、世界中から尖った人材を集めてきて、綿密な絵コンテをつくり資金集めの段階まで進みます。

ところがホドロフスキー

「この映画は12時間。いや20時間になるっ!」

とか訳わからないこと言って譲らないものだから、そんな誰が見るんだかわからないものに金を出してくれる会社はなくて、頓挫してしまうという話。

どこに企画を持ち込んでも

「絵コンテは素晴らしいんですけど。あの変わり者の監督なんとかなりませんか?」

って言われちゃうのは、こちらとしても「まあそうなるでしょうね」って思います。

 

とはいえ、40年経って御年84歳にもなったホドロフスキーがポケットから紙幣を取り出して、興奮でちょっと震えたりなんかしながら

「こんなものただの紙だ。こんなもののために私の頭の中にある素晴らしい作品が作れないなんて馬鹿げてる!」

と激昂するシーンは(どれくらい真に受けていいのかやや困惑しながらも)感動的です。

資本主義に魂を包摂されない男ホドロフスキー(扱いにくい)

 

すべてを掛けて取り組んだ企画が頓挫してしまったところで、1984デビット・リンチ監督で映画化が実現されてしまいます。

リンチほどの監督ならばこの難しい作品の映像化を成功させてしまうに違いないと、落ち込むホドロフスキー

「ショックで死んじゃうから見に行くのやだ」

とダダをこねるところを、息子に

「そんなことでは魂の戦士とは言えないぞ!」

と叱られて見に行ったそうです。どんな親子関係だ。

ところが、しょんぼりと劇場に向かい、息も絶え絶えで観始めて、すぐにみるみる元気を取り戻す。

「やったー!これはひどい!」

そのへんははちゃんとした凡人なんだな、と思って共感を持って強くうなずく、白眉のシーンです。

 

ホドロフスキーをそんなに喜ばせたリンチの『デューン』ってどんなものかと、これもアマゾンで見てみました。

たしかに、ひどいといえばひどいんだけど、全然退屈しないで最後まで見られてしまうあたりはさすがとも言えるのです。

ゲラゲラ笑いつつも、そんなに馬鹿にしたもんでもないぞ、っていうか私はわりといいけどね、と思いました。

ただ、ホドロフスキーの頭の中にあった壮大で綿密な妄想と比べると、しょぼかったのであろうというのは、容易に想像できる。

 

で、ホドロフスキーの方は、『映画版DUNE』としては結実しなかったけれども、あちこちの映画会社にあるその綿密な企画書がその後の多くのSF作品に影響を与え続けている、ということで、叶わなかった夢の話としても、妙に陽気な老人の話としても、魅力的な記録映画でありました。

 

 

 

 

何が彼をそれほど夢中にさせたのか、と思って原作も読んでいるんだけど、私は「見たこともないものに対する創造的イマジネーション」が乏しい方の人間なのでSFの良し悪しって実はほとんどわからない。

ただ、恥ずかしながら馬鹿みたいな感想を書いておくと「長いけどわりと面白い」

 

 

そしてなぜそんなに「DUNE」ばかりあれこれ見てるのかといえば、今週末、満を持してドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品が公開されるからです。

予告映像を見るに、さすがに迫力の世界観。

これも未完のDUNEがあったからこそ、ここまで来たってことかい、と思うとまたいろんな意味で楽しみになってくるのでありました。


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生きてきて一番驚いたことってなに?

もう二十年やそこら会っていないが、母方の祖母が存命で、今百歳くらいなのだ。

70歳前後で夫に先立たれ、そのあとずっと一人で暮らしてきて、いよいよ100歳かという頃になった昨年、今度は娘(私の母)を亡くしたことになる。

近頃少しぼんやりしてきていることもあって、あえてわざわざ訃報を伝えてはいないそうだが、頻繁にやりとりしてた電話もぱったり来ないから「たぶん、気づいてるんでないか」と父は言う。

百年も人生が続くとそういうことにもなるものかなあ、と思う一方で、想像するとやっぱりずいぶんなことだ。

サヨナラだけが人生だ、とは言っても。

 

「百年ってすごいよな。人生で一番びっくりしたことってなんだろう」

私はこの話が好きなのだ。

自分より長く生きている人の、人生で一番驚いたこと。

「お前らの世代が百歳になったときは、このコロナがひどかった、っていうことになるんだろうな」

と、父は言う。

たぶん、違うだろうな、と内心私は思う。

私は、家に猫といて、なんかしらないがわりとうまくやれてしまったのだ。

末期がんの伴侶を緊急事態下の病院で看取った父の目にうつるパンデミックの過酷さを、私は共有しなかった。

今更、猫とのほほんとやれてしまったのであんまり、とは申し訳なくて言えないが。

 

「若い頃が経済成長期だった人って『はじめてアレを食べて、こんなうまいものが世の中にあるのか、と思った』とか、楽しい話が多そうな気がするな」

と言ってみると

「俺はそれあるぞ」

とすぐ返ってくる。

答えは知ってるんだけど、話のなりゆきにちょっと罪悪感を持ってる娘としては素直に聞いた。

「なに?」

「ソフトクリーム」

それ、私が子どものときも言ってたな。そんなにうまかったのか。

「近所の菓子屋がソフトクリームをはじめてな」

「駄菓子屋?」

「いや、ちゃんとした菓子屋。まんじゅうとか売ってる」

父が高校まで過ごした町は、今や人口1600人程度の、電車も通ってなければ産業もない、うっかりしてると見過ごすレベルの超絶過疎地だ。

「あんな町にちゃんとしたお菓子屋さんがあった?」

「あるさ、映画館も3館あったし、なんでもあった」

私がその町を旅の途中に見に行ったのは20年も前だけど、その時ですでに人っ子ひとりみかけないような場所だった。まんじゅう屋なんて、想像もつかない光景だ。

「こんな柔らかくてうまいものあるものか、ってびっくりしたな」

わはは。ソフトクリームというものを一切前情報なしに食べたら、たしかにそうなるかも。それは楽しそうな経験ではないか。

「私の世代だと、もうなにか食べて衝撃的な驚きってあまり記憶にないよなあ」

 

私が人生で一番驚いたのって、夜が暗いと知った瞬間のことだ。

学生の時、野宿の旅をしていて、あれはたぶん鹿児島あたりだったような気がする。

なんだかえらく疲れて、日暮れ方ギリギリに、道路から少し離れたところに人気のない海岸を見つけて急いでテントを張った。

たぶん夕食を作って食べて、あんまり疲れてすぐに寝たのだ。

完全に日が暮れてから一旦目が覚めて、テントを開けて外に出た。

その瞬間、自分の目の機能がどうかしたんだと思った。

目を開けているのに何も見えないのはどうしたことだろう?

そして「完璧な闇」というのを、自分がこれまでの人生で一度も経験したことがなかったのだということに、やっと思い至った。

目を、開けても閉じても、視界が同じだなんてこと起こりうるのか。

今考えれば、視界のはてまで外灯のひとつもなく、月も星も出てないような夜だったのは、野宿の旅の中でも比較的いろんな条件が重なっての、それなりに稀な夜ではあった。

団塊ジュニアでそこそこ都市機能の充実してきた地方都市で育ったわたしの、それまでの人生で一番のインパクトだ。

 

人生で、一番の思い出かあ。

母とはじめてデートしたときの話なんかも、聞けば面白いのかもしれないけども、それこそ絶対聞かないやつだよな。

本当は面白いんだけど、でもわざわざ聞かないことを、人はそれらを全部持って、いずれは二度と聞けないところまで行ってしまう。

本当は、面白いんだろうけどな。……初デートの話?いやいや……いらんいらん。

 

 

 

 

 

 

 

 

ホットりんご ~無精かつ芯ごといけるお得感

ありがたいことに、今年はずいぶん林檎が安い。

朝からあんまり調子よく林檎を食べていると、気づいたら寒くなってるときがあるので

近頃は温めて食べるようになってきた。

 

サザエさんちのたまちゃんが持ち上げるときのように上下に二等分して、断面にシナモンとジンジャーパウダーをふってから、そっと元の形に戻してレンジで3分かける。

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猫舌なので少々待ってから端からガシガシかじって食べる。

 

最初のうちこそ、芯を除いて一口大にカットしてからレンジに掛けていたが、そのうち

「切断面はできるだけ少ない方がおいしいのではないか」

というようなことを考えはじめ、結局、無精もかねて一刀両断で落ち着いた。

何がいいって、レンジにかけると芯ごと食べられるのでこの方が無駄がない。

たまに口の中にちょっと固いところが残るときがあるのでその時は出すが、基本的には種も芯も何の抵抗もなくアチアチ言いながら端からずーっと食べていける。

最後に残るはぴょろんとなってる茎のみ。

 

ちなみに「まったく切らない」ということも、考えないではなかったが、

爆発の可能性が否めないのと、たぶん、実より皮の方が少し固いというバランスから考えるに、食べるのがものすごく危険かつ困難な物体に成り果てる可能性があるので、やめておいた。