晴天の霹靂

びっくりしました

『人新世の「資本論」』 ~家の近くに森林公園があれば結構しあわせなので

 

 最近、巷で色々と話題の『人新世の「資本論」』、大変おもしろかったです。

 こういう本はアマゾンのレビュー欄が大変おもしろいですよね。

「人新世」っていう、別ジャンル(地質学)の新しい言葉に、「資本論」っていう業の深い言葉がくっついてるので、タイトルだけで十分危険な予感はします。

レビューでは「賛否両論」のうちの「否」のほうの熱量がすごくて、あんまりうっかり「おもしろかった」とか言ってしまうと出会い頭の事故に巻き込まれて死んでしまうのではないかと不安がよぎるのだけども、最近読んだ本の中でも超おもしろかったのだから、仕方ない。

 

20年くらい前から天気の良い日に森なぞを散歩しながら思ってはいたのです。

いい陽射しとか、森林とか、空気とか、人生の中で最も深い恵みにあたるものってだいたいタダだし、むしろいくら金を積んでも買えるものじゃないのだが、これが「人生の最も豊かな部分」であるとすれば、私は朝から晩まで毎日一体なにをしているのだろうか?

この疑問は当然、幼稚で無知でトンチンカンなんだろうと予感があったので、みんなも同じようなことを思ってるんじゃないかとうっすら疑いながらも、言語化しないようにちゃんと自重はした。

 

それがこの本のおかげで

「『市場経済にそぐわない公共財産をコモンと言い、このコモンの部分が増えるほど社会全体としては豊かになる』という言い方があったんだ!」

ということが判明。

そうそうそれそれ、私がいいたかったやつ。

そこだけとっても、もう十分に面白い本だった。

 

あとは、常日頃から「世界中の資産家の資産が一気にゼロになるような特殊な磁気嵐って起こらないものかなあ」というような愚にもつかない妄想で楽しむ癖のある私としては、「必要なものを生産したらもう十分だから、過剰な労働を作り出すのをやめて家に帰って人生を楽しもう」というようなことを言ってくれる人を見つけるとだいたいすごく好きになっちゃう傾向がある。

わくわくする本であった。

 

 

 

 ちなみに森林の中を散歩しながら「いったい朝から晩まで私ってなにやってるんだろう?」と思いはじめた頃に熱心に読んでた本。

「朝から晩までみんななにやってんの?」みたいなことが書いてある。

 

夏至、何らかの発芽、豆苗のプランター栽培

 

プランターに土を張って、気が向けば果物から取り出した種やら、発芽してしまった野菜やら、もらった百均の種やらを、時々好き勝手に放り込んでいたのが命名「我が家の限界農園」である。

冬の終わりから開墾しているものの、農園というよりは貝塚と言ったほうがいい使用状況であるため、「水をやる」という概念をもたぬまま、今やついに季節は夏至である。

 

あるときふと水をやってみたら、なんと水やり2日目には何らかの芽がひょこひょこと出始めたのだ。

驚いた。

芽が出るかもしれないなあ、と思ったから植えていたには違いないのだが、実際出るとずいぶんと不思議なものだ。

何のために出てきたんだ、君たち。

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限界農園

しかし問題は、なんだかいろいろな種を機嫌よく放り込み過ぎたので、一体何が発芽してるのか全然わからないことだ。

一番それらしいところを考えれば、朝顔とニンニクが発芽してきてるように考えられる。

しかし他にも、ピーマンやらネギやらりんごやら、松やらネコヤナギやら、可能性だけはゼロとは言えないものもいっぱい埋まってはいるのである。さながら幼年時代

 

そんな見放された可能性のたまり場に、今さらなぜ水をやる気になったのかといえば、栽培優等生の豆苗のせいなのだ。

スーパーで買った豆苗は「残った根元を水に浸しておくと新しい芽が出てきます」と書いてある。

無論そのようなことはだいぶ前から知っているし、豆苗の再収穫は大変楽しいことも体験済みなのではあるが、近年では部屋のどこで育てても夜中に猫が食べてしまうためにすっかり諦めていたのだ。

 

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豆苗の育て方

ところが、ふとした拍子に久しぶりの豆苗を買い、美味しく食べ、その後、まだ再生できる根っこをみすみす捨てるわけにもいかないので、はたと困った。 

思案するうち、ベランダに未使用のプランターがひとつ余っているのを思い出した。

 

ベランダで育てれば猫にいたずらされる心配もなかろうというので、ぜいたくにも培養土に植える運びになったのである。

こちらは経験的に水分さえあれば簡単に育つのを理解しているので、意味不明なネグレクトに走ることもなく、当然のように植えたらすぐにたっぷり水をやる。

その流れで、もう一個の見捨てられた可能性のプランターのほうにも余った水をかけるようになったのだ。

これがどうやら、やつらの人生に思いがけない輝きを与えたらしいのだ。

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豆苗農園4日目くらい

収穫めがけてわっさわっさと景気よく育てる豆苗もかわいいが、なんだかわからないものについでに水をやってなんだかわからないままに育てている自分、というのもおのが人生の投影みたいで面白い。

「いいね、やっぱり。芽が出るってのはそれだけでやっぱりいいもんだね」

などとうそぶきつつ、毎朝ステテコ履いてベランダの何かに水をやる生活が始まったのである。

なんでもいいから大きく育て。

 

『大豆田とわ子と三人の元夫』 ~天使は網戸をはめられない

「大豆田とわ子と三人の元夫」が、面白くって毎週楽しみに見ていたんですが、先ごろついに終わってしまって大変悲しいですね。

 


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これという明確なストーリーはなく、3回結婚して3回離婚した大豆田とわ子と、3人の元夫が「なんかわちゃわちゃ生きてる」というようなドラマでありました。

コロッケとか網戸とか抜けたパーカーの紐の直し方とか、生きることの地味さをすくい上げながら毎週とわ子と、とわ子のことを好きな人の話を傍観できるのは幸せな時間でありました。

 

で、最初から違和感があるのはもちろん元夫の三人がとわ子のことを好きであることによって、やたらと仲がいいということです。

「どう考えても、成人男性3人でそういう関係にはならないだろう」

という奇妙な仲の良さを持ってみんなとわ子のうちにワラワラ集まってきてしまい、しかもそこに排他的な雰囲気が生じないという物語空間があるわけです。

この妙な感じはなんだろうなあ、と思いつつずーっと見てたわけですが、最終話でとわ子がうたた寝してる間に元夫三人組が満足気に

「大豆田とわ子は最高だよな」

という、まるでとわ子の夢オチであるかのようなファンシーな話で盛り上がってるのをみるにつけ、私はついに思った。

これはヴィム・ベンダースの『ベルリン 天使の詩』なのではあるまいか、と。

 

 

大変地味なこの映画を、見たのはおそらくは学生の頃だったのです。

「天使が普通のおじさんだ!」ということと「よくわからないので退屈だった」ということ以外はあまり覚えていないのではあるけれど、よくわからないことによって記憶に残る映画ってものは結構たくさんあるもので、そういう映画って思い返すに、どうやら人生には大事であるようですね。

 

天使はそこらにいっぱいいて、人間の方からは見えないけども、天使の方では人間のすることや思ってることが全部わかって、観察して記録している。

でも天使からは人間の生活に影響を及ぼすことはできなくて傍観するだけなので、天使は寂しい、と。

覚えてる限りでは、だいたいそういう映画でした。

 

まあ、そういう印象だったんです。

「夫」だったときは互いの人生に影響を及ぼし合うことを合意した仲だったけど、なんらかの事情で「元夫」という天使になってしまった、と。

とわ子のことはずっと観察しているけれども、もはやその生活に直接の影響を及ぼすことはできないので寂しい。

じゃあ、傍観者としてしか存在できない以上、その人にとっての存在価値ももはやありえないのだろうか、というところで悶絶があったりもするのですが、

直接影響を及ぼし合うことはできなくても、そこに天使がいることをぼんやり感じているということそのものによって、人間の方は寝ていたって影響はされてはいる。

人間が集合体で生きてるってのは、なんかわりとそういう感じだよね、と。

 

ちなみに松たか子はお嬢だから3人も天使がいるんでしょうよっ!

っていうわけでもなくて、3人の元夫にもちゃんとそれぞれ天使がついてて、天使界の方にも広がりを感じたところがまた良かったです。

 

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ヘップバーンである夜もある

真夜中、ずっとパソコンをつけていた部屋は熱がこもって暑いので、虫が入らないように室内の電気は消し、窓を開け放って寝る前の換気をする。

ベランダのすぐ下は小さな小さな公園があり、誰もいない滑り台の脇にオレンジ色の街灯がひとつ静かについてほの明るい。

左手に見えるまあまあ金持ちの巣窟らしい高層マンションはだいたいの部屋が寝静まって、かたや右手に見える黒く沈んだ山並みはしっとりと夜霧に霞んでいる。

ひんやりとしていい夜だ。

 

「ちょっとオートミールでも作ってこようか」

いい調子になってきたので耐熱ボウルにオートミールと塩ひとつまみと水をいれてレンジにかけた。

寝る直前にあんまりものを食べるもんじゃないと、現代人にわずか残された満足に水をさすために何者かによって流布された罪悪感が世間にはびこっているが、その件に関しては

「バーカ、これが一番おいしいんだよ」

(『大豆田とわ子と三人の元夫』コロッケのシーンより)

と、尊厳をもって闘うべきである。

 

深夜、寝静まった宇宙の片隅で、ちょっと小腹も空き、なにか暖かいものを食べると心地よく眠れそうなコンディションで、誘うような夜霧も出ており、夜食向きの好物もキッチンにあるときに、我慢して生きてどうすんだ。

 

チン、と景気よく返事をしたボウルを抱え、暗い部屋を横切って窓辺に戻る。

同じくちょっと暑いと思っていたらしい猫がいつの間にかベランダに出て、しきりに下を覗き込んでいる。

そうか、こんな時間にベランダに出るのは初めてだね。

夜ってなかなかいいものだろう?

猫の様子を見ながら行儀悪く窓枠に腰掛ける。

ティファニーで朝食を』の、「ムーンリバー」を歌うシーンである。

歌声を聞きつけた作家志望のジョージ・ペパードが窓越しに見下ろすのと目があって、歌い終わった洗い髪のヘップバーンが言うのだ

「What’re you doing?」

「Writing」

「Good」

ギターがオートミールであることと、ジョージ・ペパードが黒猫であることと、ヘップバーンが私であることをのぞけば、ほぼ『ティファニーで朝食を』のワンシーンそのままあると言っても過言ではない。

若くて美しい白人男女だけが恋をした、世界が実に単純だった時代。

 

深夜のオートミールを歌い終わった私は

「さて、寝ようかマロちゃん」

と機嫌よく声を掛ける。

猫はどんな面白いものが見えているものやら、細長く身を乗り出して眼下の公園から目を離そうとしない。

仕方ないので空になったボウルをおき、キッチン側の掃き出し窓からサンダルを履いて猫の回収に向かう。

人間の都合で身体に触られるのが嫌いな猫は、するりと逃げて、今まで私が座っていた腰高の窓かぴょんと室内に飛び込んでいった。

私がもたもたしてる間にまた脱走しないように、すぐにベランダ側から窓をしめる。

これでよし。

 

気がつけば、換気の終わった快適な室内に猫。

そしてなぜだか私は両方の窓をきっちりしめて、完全に夜中にベランダに締め出された飼い主の図。

なんとなく、地球最後の一人になった気分でガラス越しの猫を見つめる。

 

はるかに広がるムーンリバー、いつかあなたを渡ってみせる(敗北感)

 


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アカシアの雨には打たれ、カラスに追われ

公園や道路沿いのあちこち植えられているニセアカシアが花の季節で、マスクをつけたまま下を通ってもずいぶんと甘い匂いがする。

ここまで匂いの強い花だったのか、とマスクのおかげで今年改めて知ったのだが、それもいつの間にか散り始めて道路が花びらで覆われていた。

花吹雪が風に誘われてしきりに白く降ってくる。

永遠に咲き続けそうなほどの押しの強さに感じられたものが、いざとなればこんなふうに早々に散ってしまうのか。

 

「アカシアぁの雨に打たれて このまま 死んでしまいたぃ」

という1960年の西田佐知子の曲を、私がさすがに普通に知ってるわけはないのであるが、どうかすると口ずさんでるほどに聴き馴染みがあるのは、子どもの頃懐メロ番組でも見たのか、親が鼻歌でも歌っていたせいか。

記憶は定かでないが、印象深い歌だ。

 

「アカシアの雨」という言い回しについて深く考えたことはなかったけれど

木の葉ごしに降ってくる雨だれのことではなく、この匂いの強い花吹雪のことかもしれない、と気がついた。

アカシアといえば、街路樹のイメージばかり強かったので、アスファルトの上で唐突に行き倒れてる湿った女の子を思い浮かべては、さすがに妙な歌だなあと思っていたのだ。

そうではなくて、アカシア特有の催眠的な強い匂いの中を歩きながら「この花が散り終わるまでに居なくなれたらいいのになあ」という気持ちになる話なら、わからなくもない。

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ニセアカシアの多い遊歩道から我が家へ向かうショートカットルートに、小さな墓地がある。

風化した自然石の多い古く静かな墓地で、首の落ちてしまった気の毒なお地蔵様なんかがいるのだけど、不思議と私はそこが好きなのだ。

たぶん、その長い年月に対してなんだか親しみぶかく、少し恐ろしいせいだろう。

 

日も長いから普段歩かない奥の方のお墓も少し見てみようか、と思ってぐるっと一周しようとしたところで墓碑のひとつに見覚えある文字が眼に入った。

「え、二〇三高地?」

二〇三高地を戦った人がここにいるの?その頃ってこのあたりはこのあたりで開拓の原野だったろうに。

 興味にかられて漢字とカタカナで彫られた長い墓碑を読もうと足を止めた。

 

「かーっ、かーっ」

直ぐそばの墓石の上にすぐさまカラスがやってくる。

来たか。

知っている。今はカラスに襲われる季節なのだ。

ちょっと木の多いところではあちこちでカラスが子育てをしており、公園でも道路でも、とにかくやたらとどこでも危ないし、私はもとからカラスによくよく襲われる側の人間なのだ。

 

「ちょっと待って。読んだらすぐ行くから」

襲われ率の高さにも関わらず、カラスは賢いから話せばわかるのではないかという希望を私はまだ捨てられずにいて、声をかける。

振り向いてみると、可愛い顔をしてるし、今すぐ飛びかかって来る様子ではない

(ほんとは可愛い顔のカラスのほうが気が強いのだけど)

巣がどの木にかかってるのかはわからないが、ここから動かなければきっとだいじょうぶなのだろうと踏んでもう一度墓碑に視線を戻した。

「かーっ、かーっ」

しかし、私ごときに無視されたことに苛ついたらしいカラスは、威嚇しながらもっと近くの墓石の上に飛びうつってきて、真横でいよいよ立腹しはじめた。

「わかったわかった。ごめんごめん」

後ろ髪ひかれながら、今日のところは諦めるしかないかとその場を離れる。

  

なぜ頭がいいはずのカラスはいつも、巣がすぐそばにあることをあんなに必死に私に知らせるのだろうか。

私がおいそれと木に登ることも、空を飛ぶこともできないくらいのことは見てわかりそうなものだし、ここが人の通り道でもあることは巣を掛ける前から知っていたのだろうに。

あの子、ほんとうはどれくらい頭がいいのかね。

墓碑、気になるなあ。

雛の巣立ち、いつになるんだろうなあ。

 

とりとめもないことを考え考え、アカシアの雨にうたれて家へ帰る。

 

 

 

銀の靴、少年のプリン

なんだかいきなり気温があがった。

一冬使ったラグやらこたつ布団やら半纏やらを全部まとめて洗い、狭いベランダにヘンポンと翻す一方、トランクルームから久しぶりの扇風機を運びだしてホコリを払うのは、楽しい作業である。

 

しかし、まだ身体が慣れていないので出歩くと体力を消耗する感じで暑い。

「これはマスク外して歩いたほうがいいかな」

と思うが、そういうときに限って途切れなく子どもたちが歩いてくるのに出くわすものだ。

もし学校で「外でもできるだけマスクしましょうね」と日々言われているのであれば、すれ違う私がおもむろに外すことで混乱させるのも悪いかもしれない。

子供らをやり過ごしてから外そう、と思い直した。

子どもの波をすり抜けていたとき、一人で歩いてきた少年がすれ違いざま、大きな声できっぱりと言った。

「帰ってプリン食~べよ」

 

以前、海外のドキュメンタリーで興味深い脳の機能について見たことがある。

事故か何かで脳の一部に損傷を負った男性が、ちょっとしたトリガーで激しく感動し、そのまま長いこと平常心に戻れなくなってしまった、という不思議な話だ。

なにかの拍子に悲しい曲が耳に入れば涙が止まらず、一日何もできなくなってしまう。

番組では取材に来た女性の記者が履いている靴を見て

「この部屋に銀の靴で入ってきた人はあなたがはじめてです」

と言うなり、そのまま話が続けられなくなってしまった。

銀の靴に感動しすぎててしまった優しげな男性の映像が、どうしたわけか何年経っても印象深く心に残っている。

その特殊な症状のために「ふつうに暮らしていく」ということは著しく困難になってしまったのかもしれないけど、だけど一体なんという人生だろう!

 

「帰ってプリン食~べよ」

と、すれ違いざま少年は言った。

彼の家の冷蔵庫の中のプリンを想像して、その時私は思ったのだ。

幸せは冷蔵庫の中のプリンだ。

幸せな人生とは、今日冷蔵庫の中にプリンがあることを期待し続けることだ。

心のうちに彼のプリンを祝福しながら、暑さの中を足取り軽く歩く。

週末が晴れたら、カーテンも洗って干すことにしよう。

そうだそうだ、プリンだプリン。

銀の靴、少年のプリン、6月の光。

そうだ。誰にとっても、人生はプリンだプリン。

 

 

 

ドラマ『POSE』 ~私の世界を見下すんじゃねえ

ネットフリックスで『POSE』を観ております。

鼻血出るほど面白い。


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ボールルームという80年代のニューヨークにあったシーンが主たる舞台。

ディスコっぽい場所で主にトランス女性たちによって行われていたファッションショーとダンスコンテストが合体したようなカルチャーのようです(全然知らなかった)

そこを取り巻く人達の結束やらHIVやら恋愛やら青春やら人種差別やらLGBT差別やら格差やら情熱やら絶望やらトランプタワーやら、全部入りでド派手に話が進んでいきます。

 

かっこいいファッションと音楽とダンスに紛れてグリグリと胸を締め付けてくるのは、人種やジェンダーの話にとどまらず、無限に人の心に張り巡らされているアンコンシャス・バイアス、無意識の差別を常にえぐり出しながら話がすすむこと。

 

どうにも説明が長くなってしまうのだけど、たとえば我が事として胸に刺さるアンコンシャス・バイアスのこんなワンシーンがあります。

 

ボールを取り巻く文化には「ハウス」という習慣があって、マザーと呼ばれる界隈の実力者のところに若者たちが身をよせて共同生活しながらチームでボールでの名誉を競っています(ようするに家や仕事や身寄りのない人が多いので相互扶助のシステムがないと生き抜けない)

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家を追い出されて公園で寝泊まりしていたデイモン君と声を掛けるマザー

ブランカという新米のマザーは公園でホームレス状態だったゲイの少年デイモンのダンスの才能を見抜いて自分のハウスに引取り、強引な直談判の末、名門ダンススクールにねじ込みます。

 

奇跡的に名門スクールに入ることができ、ホームレス生活から一転、将来のために大きなチャンスを手にしたデイモン君。

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怖じ気づくデイモン君を連れてダンススクールに直談判に行くマザー

ところが恋愛やらボールの練習やら色々あってレッスンに遅刻などするのです。

「ちょっと浮かれてるんじゃないか」

ということで校長から保護者であるマザーが呼び出されます。そのくだり。

 

最初、校長とマザーはデイモンは若くてバカだからちょっとシメてやらねばならぬ、ということで話は噛み合っているのです。

その話の途中、校長がいいます。

「足を引っ張ってるのはあなたたちのボールです」

「ダンスは仕事なんです。トロフィーのために着飾るようなお遊びとは違う」

What we do here is work,
not the instant gratification that comes from dressing up
and walking for a trophy.

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ダンススクールの校長

それに対してマザーが突然切れます。

「宝石や銀を身に着けていいご身分ね。
デイモンの話はさておき私の世界を見下さないで。
私がボールにどれだけの労力を注いでいると?」

Miss Uptown Fancy with your African jewels
and your sterling silver.
We can talk about Damon,but what we're not gonna do
is sit here and look down our noses at my world.
You have any idea the work and struggle
that goes into walking a category?

 

日本語字幕より言ってることはだいぶ口が悪いみたいにみえるんですが

「私達がやってるのは仕事だし闘争なんだ(work and struggle)高い宝石ジャラジャラつけた山の手婦人にわかるわけないんだから黙ってろ」という感じか。

 

どれだけの心の拠り所となっている自己表現でも金にならなければ「遊び」であり「優先順位下げるべきもの」であり「見下されてやむなし」というバイアスって、自分の心の中を見渡しても深く巣食っている価値観なので胸が痛いところです。

でも表現を換金するための専門的な訓練を受けたり、場を育てたりするには結局金がいるので、生活のために換金できるかどうかと表現の優劣ってどうやら相関関係ではないな、ってことはわりと直感的にわかっちゃいるんですよね。

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ボールで競うのは名誉とトロフィーだけ

 

世界の終わりより資本主義の終わりを想像するほうが難しい、とかいわれるこの時代に「金にならないものは地位が低い」と言われて「あ、ほんとそうですよね、すいませんでした、あなたの邪魔にならないように気をつけます」という態度にならずに居るのって困難なことです。

「私の世界を見下さないで」

と即座に反発できる勇気は見てると元気がでてくる。

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「宝石や銀を身に着けていいご身分ね」

 またこのくだりがすごかったのは、言い返された校長がこの点に関しては黙って、言い返さないのです。

ふつうは、無意識の差別を指摘された時って、むしろいきなり差別主義者扱いされたことに傷ついて条件反射で反撃してしまいがちです。

「いいや、違う。私はあなたを見下していない。なぜなら」

と言って、まったく同じ内容の差別的な主張をよりまわりくどい言葉で頭から繰り返す、という態度は最もよく見かけるものですが、このシーンはそういう展開にならなかった点でも印象が強いものでした。

アフリカンルーツの校長もまた語らずにいる無意識の差別との無限の格闘があったのであろうかと思ったりもします。

連帯しながら喧嘩する、ってこのドラマではすごくあちこちに見受けられる人間模様です。

  

 まあ、とにかく超面白い!