「大豆田とわ子と三人の元夫」が、面白くって毎週楽しみに見ていたんですが、先ごろついに終わってしまって大変悲しいですね。
これという明確なストーリーはなく、3回結婚して3回離婚した大豆田とわ子と、3人の元夫が「なんかわちゃわちゃ生きてる」というようなドラマでありました。
コロッケとか網戸とか抜けたパーカーの紐の直し方とか、生きることの地味さをすくい上げながら毎週とわ子と、とわ子のことを好きな人の話を傍観できるのは幸せな時間でありました。
で、最初から違和感があるのはもちろん元夫の三人がとわ子のことを好きであることによって、やたらと仲がいいということです。
「どう考えても、成人男性3人でそういう関係にはならないだろう」
という奇妙な仲の良さを持ってみんなとわ子のうちにワラワラ集まってきてしまい、しかもそこに排他的な雰囲気が生じないという物語空間があるわけです。
この妙な感じはなんだろうなあ、と思いつつずーっと見てたわけですが、最終話でとわ子がうたた寝してる間に元夫三人組が満足気に
「大豆田とわ子は最高だよな」
という、まるでとわ子の夢オチであるかのようなファンシーな話で盛り上がってるのをみるにつけ、私はついに思った。
これはヴィム・ベンダースの『ベルリン 天使の詩』なのではあるまいか、と。
大変地味なこの映画を、見たのはおそらくは学生の頃だったのです。
「天使が普通のおじさんだ!」ということと「よくわからないので退屈だった」ということ以外はあまり覚えていないのではあるけれど、よくわからないことによって記憶に残る映画ってものは結構たくさんあるもので、そういう映画って思い返すに、どうやら人生には大事であるようですね。
天使はそこらにいっぱいいて、人間の方からは見えないけども、天使の方では人間のすることや思ってることが全部わかって、観察して記録している。
でも天使からは人間の生活に影響を及ぼすことはできなくて傍観するだけなので、天使は寂しい、と。
覚えてる限りでは、だいたいそういう映画でした。
まあ、そういう印象だったんです。
「夫」だったときは互いの人生に影響を及ぼし合うことを合意した仲だったけど、なんらかの事情で「元夫」という天使になってしまった、と。
とわ子のことはずっと観察しているけれども、もはやその生活に直接の影響を及ぼすことはできないので寂しい。
じゃあ、傍観者としてしか存在できない以上、その人にとっての存在価値ももはやありえないのだろうか、というところで悶絶があったりもするのですが、
直接影響を及ぼし合うことはできなくても、そこに天使がいることをぼんやり感じているということそのものによって、人間の方は寝ていたって影響はされてはいる。
人間が集合体で生きてるってのは、なんかわりとそういう感じだよね、と。
ちなみに松たか子はお嬢だから3人も天使がいるんでしょうよっ!
っていうわけでもなくて、3人の元夫にもちゃんとそれぞれ天使がついてて、天使界の方にも広がりを感じたところがまた良かったです。