『大いなる不在』を観てきた。
一人だったらわざわざ観にいかないタイプの映画ではあるけれど、なんせ75歳父が「観たい」と言ったので、じゃあ行きますか、となった運び。
事前に宣伝を観るに、アルツハイマー症を扱った映画らしく、「そういうものを娘と一緒に観たいってのはどういう心境なの?」という若干の緊張感はあったものの、それ込みでの映画体験と思えば興味深い。
「男の健康寿命は75歳までなんだ」などとたまに言ったりする父は今日もむやみに元気で、熱中症警戒が出ている中、水分も持たずに一時間歩いて映画館までやって来た。怖い。
映画は森山未來と藤竜也の演技対決が愉快で、全体としてはまったく明るい主題ではない映画ながらけっこうニヤニヤニヤしながら観て楽しい。
それにしても、藤竜也が困った人なのは、別に認知症を発症したからなのではなくて、もともと口を開けば周囲を困らせるタイプの人が認知症にもなったというだけの話であるので、症状の描き方としてちょっとばかりネタとして扱い過ぎのようにも見えるのが気にはなった。
本人が隣で観てるところにナンだけど、もし我が父が「おれは誘拐されたんだ。ここから出るにはパスポートがいる」とか言い出したら、「え、なになに。お父さんどんな闇の組織と対決してるの?」とか身を乗り出して聞いちゃうと思うけどな。
せっかく森山未來がじんわり面白く受けているのだけど、対象がなんとなく脱色された認知症であり、そのわりには悲劇的でもあるから、全体像が定まらなくてフワフワしている。
そんな感想でも言ってみるか、と終演後「まあ、おもしろかったね」と父にふってみたら「でも認知症とかの話ばっかりだなあ」と返ってきたのでちょっと意外だった。なんだ、それで選んだんじゃなかったのか。
どうやら洋画ばかりかかってる映画情報の中で、字幕読むのは面倒くさいし、見知った顔が映っている作品は他に見当たらない、くらいの当て推量で選んだらしい。そういうことなら、よかったよかった。
長生きすれば人生の終盤で「いつ、どこ、だれ」の認識が苦手になっていくのはたぶん普通のことで、それによって即座になにかが大事になるみたいな映画は、わざわざ観なくもいいんじゃないかな、というな気が、実は私はちょっとするのだ。
藤竜也がことさらフィクショナルな認知症じゃなかったら、もっと良かったと思うんだよな。疎遠だったとしても、いくつかの認知機能の低下があるとしても、父子ともとっても魅力的な家族だったし、そういう話として見せてくれればよかったような気がする。
映画館を出て、ついでだから人通りの多い繁華街を少しばかり散歩する。ここも映画館、あっちにあるのも映画館。おもしろそうなのやってたら今度はここも来てみよう、と指さして案内する。
「昔は映画館ってでっかい看板が出てたろ」
「ああ、看板屋さんが手描きするやつ」
「あれがないから最近の映画館ってわからんな。さっきも気づかなくて一回素通りした」
なるほど、言われてみれば、スターの顔をかかげた大看板のある町の映画館以来、長く映画を観てない人にとっては、今のシネコンは何の施設なのかパッと見ではわからないかもしれない。
手描き看板なんて、久しぶりに思い出した。さすが、長生きすごい。