晴天の霹靂

びっくりしました

『パーティーが終わって、中年が始まる』 ~枯渇って本当に枯渇なんだろうか

phaさんは年齢がほぼ同じで、インターネットから得体のしれない文章のうまい人として登場して以来、なんとなくいつも似たようなことを考えているような気がして本が出るたびに読んできた。勝手に、一緒に歳をとってきたような気がしている。たぶんこの人の読者はほとんどの人がそう思って読んでるんだろうな。

そんな1977年生まれの私もパーティーが終わって、中年が始まる。

 

 

 

今まで僕が文章を書くやり方はこんな感じだった。  頭の中にひらめきが降りてくるまでは、机に向かわずにだらだらしている。ゲームをしたり、散歩をしたり、風呂に入ったりしている。そのあいだ、ずっと書く内容をぼんやりと考えてはいるけれど、そんなに真剣には考えていない。  考える内容を頭に入れたままで他のことをしていれば、そのあいだに無意識の領域で問題が整理されて、解決に向かっているはずだ、と信じている。  そうしているうちに、ふと、何かが降りてくる。あれとこれを組み合わせて、こういう順番で並べていけば形になるのでは、というアイデアが浮かぶ。

pha. パーティーが終わって、中年が始まる (幻冬舎単行本) (p.25). 株式会社 幻冬舎. Kindle 版. 

 

帯には「衰退のスケッチ」とある本において、もっとも膝を打つ描写がこの部分だったってのがなかなかに興味深いのだけど、「おおっ」と声が出るほど言ってることがよくわかる。

 

「このこと書きたいなあ」なんて主題を見つけても、単独では勝手な思い込みだから人に伝わるわけもなく、だから全然別の地点にひっかける釘みたいなものが必要になる。

そしたら自分の言いたいことと「ひっかける釘」との間をつなぐ道のりとして人に伝わりそうな形で描写できるようになる。文章を書くってそういうことじゃないかとずっと思っていた。

その「ひっかける釘」の方も、考えに考えて自分の頭から出してしまったのでは「そのままでは人に伝わらない思い込み」がもう一個増えるだけになってしまうので、外的刺激としてふと降りてきてもらうしかない。

だから私は比較的よく歩くし、瞑想とか、編み物とか、ポメラ親指シフトの練習とか、ほどほどにぼんやりするための行為が好きだ。

 

時々、「書くと決めたらパソコンに向かって、書き終わるまで立ち上がらなければ仕事は終わるじゃないか」というようなことを言う人がいて驚くのはそういうところだ。そんなことしたら未来永劫書き終わらないに決まってるだろ、と私は思ってしまう。気持ちの悪い思い込みがボコボコ増えていってとっ散らかるだけじゃないの。

でもそういう感じのことを言う人が時々いるということはたぶんそうやって純粋に頭の中で考え出すものとして文章をひねり出せるタイプの人も結構いるんだろう。もしかしたら多数派なのかもしれない。散歩とかしてるよりパソコン前集中型の方が「仕事してる感」が出せてかっこいいな、という憧れも感じる。

「なんとなくダラダラしてるように見えることに対する罪悪感」に負けて絶対何も書けないと分かっているのにパソコン前に座ってしまうこともしょっちゅうある。

 

最悪なことには2020年頃から、まだ集中できる状態でないのにパソコンの前に座ると、もれなく「無限スクロール地獄」に遭遇する世界になってしまった。こちらはまだ形になっていないテーマをうちに抱えてぼんやりとした状態を保ちたいだけなのに、無限スクロールがどんどんと表層の注意力を振り回す。youtubeが面白すぎて世界中みんなが我を忘れているんだと思うと怖いことだ。

「これではただ脳みそが溺れてるだけじゃないか、これはだめだ」と思ったりするものの、こっちも中年だから1時間散歩して何も思いつかなかったから「もう1時間歩いてこよう」というほどの体力はない。そんなことしたら帰ってきてそのまま寝てしまう可能性がある(よく考えてみたら2時間歩いてそのまま寝て起きた方がまだ効率良い可能性はあるんだけど)

 

phaさんは、ひらめきがあまり起きなくなって、なんとなくつまらなくなったのは年齢と関係があると書いていて、一歳違いの私は「ワカルー」と思うところ多々でもある。でも一方で、そもそもひらめきが起きなくなってるわけじゃないんじゃないか、という気もするのだ。

若い頃と同じくらい日々ひらめいてはいるのに「こんなの価値がないんじゃないか」と思って、しっかり捕まえる前に無意識のうちに捨ててしまうものの量が増えただけじゃないだろうか。些細なものに価値を認める勇気は、やっぱり若い方が多く持っているような気はする。

あともうひとつ、世の中の状況が変わって「晒し者になるくらいならひらめいたり表現したりしないほうが無難」という意識がいつもついてまわり、セキュリティ上捨ててしまうテーマというものも増えたんじゃないか。

 

ワカルー、ワカルー。と思って読みつつも、でもやっぱり歳と共に蓄積が増えているのはどう考えても豊かなことだし、表現というのが常に制約の上で成り立つものだってことを考え合わせると、何か今までと違う角度をさぐれば、昨日まで枯渇だとか制限だとか思い込んでたものが、いきなり大油田になったりするはずなんだよなあ、というようなことを昨今は非常に考えもする。

中年って、老いたり死んだり、ほっといてもすごいドラマが向こうから駆け寄ってきてくれるわけでもあるし。