晴天の霹靂

びっくりしました

『オッペンハイマー』 ~本当にやりそうに見えるキリアン・マーフィー

日本公開するのしないのでだいぶ長いこと話題だった『オッペンハイマー』やっと観てきました。

3時間あったわりには長さも感じさせずおもしろかったんですが、クリストファー・ノーランの「何がなんでも時間軸を入れ子にしたい」という執着ってどこから来てるのか、悩まずにはいられない時間でもありました。普通に撮ると途中で飽きちゃうのかしら?


www.youtube.com

 

まずはアカデミー主演男優賞をとったキリアン・マーフィーが本当に魅力的。

痩せ型で瞳孔開いて瞬きしないで空を見つめていると「うっかり最強兵器をつくっちゃうタイプの研究者」に実際見えるからすごいもんです。

女性にもモテて、倫理的にどうなんだろうかという行動を常にとるんだけど、直接人と相対しているときの姿勢はとても誠実で、それを積み重ねた結果は破滅的。「そういうところだよ、オッピー」と画面に向かって言いたくなる駄目っぷりと思っていたら妻から本当に「そういうところだぞ」と言われたのでした。そりゃ言うよね。

 

それにしても、被害者の居ない原爆開発なのは大変に不思議なことで、ヒロシマナガサキのことは別にしても、あんなに嬉々として溶接用ガラスとかで原爆実験の観察なんてしてたならロスアラモスからして相当な健康被害だろうと、見ていて気になるところなんですが、個人の被害って一例も出てこない。

そこが描きたかった本筋ではないから出てこなかったのだとしても、具体的な被害のない原爆についてオッペンハイマーひとりだけ罪悪感に苦しんでいると、ノイローゼかなにかのようにも見えなくもないので「はたしてこれはこの描写でいいのだろうか?」とはいう疑問は持つのでした。

同じ年のアカデミー賞を受賞した邦画『ゴジラ-1.0』では「米兵が一人もいない米軍統治」が描かれていてやっぱり非常に気になったものですが、なにかをまるっとなかったことにするとそれに関わる人物の心の動きが不自然に見えるので勿体ない気がします。

 

とはいえ、映画としては概ね面白く見ました。時間の行ったり来たりが理解できなくても、原爆が作られて落とされてオッペンハイマーが苦しんだという大筋は重々承知しているので、ノーランにしてはむしろわかりやすいくらいかもしれない。

 

3月に買った電子書籍9タイトルくらい

 

以前3巻まで読んでその後しばらく忘れていたところ、NHKで実写化しているドラマの番宣で「主人公二人の関係が交際にまで発展しているようだ」という情報をキャッチ。気になって続きを購入したのでした。なかなか地味な話だよなあ、とも思うんだけどなんか面白いのよね。

 

 

お金がないのは悲しむことじゃなくて怒ることだと、あたしゃしみじみ思うことですよ。あと全員がいつでも理由を問われることなく正規と非正規を切り替えて働けるドイツ方式めっちゃいい。

 

大河ドラマ『光る君へ』では段田安則が演じている藤原兼家の側室(財前直見)が書いた日記。美人で頭もいいが、段田安則は正妻にしてくれないし、かわいい一人息子(上地雄輔)は馬鹿だしで色々苦労した人。

大河ドラマでは気に入らない后を呪い殺したりするおっかないフィクサー兼家だけど、プライベートでは締め出しを食って門の前に立たされていたりして、かわいいところもあるのでした。

 

同じく王朝の日記文学から和泉式部日記。和泉式部は本当に面白い。今の時代にいてSNSをやってもめいっぱいバズる人だろうなあ、というのが言葉の端々の異様なエネルギーからも感じる。既存の言葉で既存の世界観を超えちゃう人ってたまにいますね。

 

和泉式部を読んでいるとなぜか夢十夜を読みたくなる。ということで近藤ようこさんの夢十夜。美しいです。

 

 

最近、会ったこともない親戚の軍歴証明を取り寄せてみるのが趣味。北海道でそんなことをしてると「北鎮部隊ってどんなだったの?」っていう疑問も自然と湧いてくるのでできる範囲で色々調べてみようかなという気になってきている。

(ちなみに軍歴証明は自治体にもよるけど六親等くらいの血族なら取れたりするので、取り寄せてみると本当におもしろい。満州で鳩の世話をしていた先祖がいたりするんです。鳩!)

 

3月は水木しげるの『昭和史』をずっと読み直していたのだけど、戦中戦後のあたりはやっぱり読んでてつらくなってくるので、「この世のほか」のものが読みたいなあ、と思って神秘家列伝を合間に読んでた。水木サン本人もこうやってこの世のほかのことを考えることによってこの世の生命を保っていたんだろう、と面白く読みました。

 

このエッセイ集が好きで、以前は紙で持っていたのだけど久々に電子書籍で買い直して再読。やっぱりいい。世界に違和感のない人はあんまり短歌とか作らないよね。

 

Netflixのドラマ化が大変おもしろかったのでまた読み直してる。てっきり三部まで全部持ってる気がしていたけど、三部はセールになるのが待てなくてオーディブルで聞いたので買ってなかったのでした。6月に文庫化予定らしいので今買うならちょっと待った方が得だよな、と思いつつ、やっぱり読みたくて買う。

新海誠かよっ」と読みながら突っ込みたくなるプラトニックラブSF。目もくらむ世紀の大風呂敷。

 

 

魔法瓶を買う

電気ケトルが壊れた。

否、電気ケトル電気ケトルたる性能にはまったく問題は生じていないのだが、利用が危険なくらい注ぎ口以外のところからお湯が漏るようになってしまった。

分解して掃除してみるも、案の定原因はパッキンの劣化であり、10年以上前の型式とあればパーツはもう手に入らない。

 

やかんとガスがあるんだから電気ケトルなんかいらないと思っていたものだけど、人から譲ってもらってなんとなし使い始めてみれば、極めて台所の狭い賃貸住宅にあって「お湯だけはキッチン以外の場所でわかせる」という環境はことの他便利であることに気づいた。

いつのまにやら毎日使うようになり、いざ「今日からもう使えません」となると今更ちょっと困惑する生活になっている。

 

電気ケトルを買い直すこともできるけれど。

毎月見るたびにうんざりする電気代の請求書を思い出して、魔法瓶にしてみたらどうなんだろう、と考える。お茶を飲むときにやかんで沸かして余ったぶんのお湯を魔法瓶に入れておけば朝一回沸かすだけで一日まかなえるかしら。思案しながらECサイトを検索していると、だんだん不思議な気持ちになってくる。

魔法瓶、魔法瓶。魔法の瓶。つまり私は魔法を買いつつあるのか。

 

コーヒーサーバーが壊れたカフェに魔法瓶を持った女性が現れて、機能不全だった砂漠の風景が少し幻想的に見えてくる『バグダットカフェ』という変な映画がある。

おもしろいけど何の映画なんだかわからない。

しかし思うに、いったん熱したものがなかなか冷めないというのは、「冷めたら都度温めればいいか」と思うことよりもっと魔法なのかもしれない。

 

そうか、魔法瓶いいね。魔法って、ちょっと久しぶりに言ったような気がする。

悩んだ末に飲食店などでよく見る形の1リットルの象印魔法瓶を買う。

砂漠の果てから魔法瓶を抱いて現れる人の夢をみたい。

 

かわいい猫も痛いのか

眠るときはいつも左を向いて、抱き枕にチョークスリーパーの姿勢でKindleを読みながら寝る。

読書に夢中になっていると黒猫がのっそりとやってきて、横向きの私の上にしっくり香箱を組む。仰向けの人間に乗る猫というのはまま見かけるが、横向きの人間の体側にもこんなに不自由なく乗ってリラックスするものかな、と感心するくらい軽快にごろごろ言いつつ猫は先に寝入る。

こちらとしても、胃の上で寝られるより姿勢が楽なのもあって、横向き二段睡眠はまずウィンウィンといえるフォーメーションではないかと思ってきたのだ。

 

それがどうしたことか、今日は朝起きると大腿骨あたりがいきなり痛い。ちょうどぴったり夜ごと猫が載るあたり、峰不二子がガンホルダーをつけてるあたりがピンポイントで痛い。

猫の重みで寝違えたか、と思いつつ、しかし猫と寝て筋肉のどこかが痛くなるのはそんなに珍しいことではないので「イデデ、イデデデ」などと言いつつ暮らす。寝違えは起きたときが一番痛くて、活動とともに筋肉が緩んでくるとマシになる。はずである。

朝のコーヒーを淹れたり、寝ている間にかすみ草を食べてしまった猫に小言を言ったりなどしている間にもなぜか峰不二子ガンホルダーあたりはどんどん痛くなり、しまいにはトイレで奇声を上げるレベルの立派な急性猫型捻挫であることを発見する。

 

しかし、どう考えてもおかしいのだ。

好きな本を読みながらいつもの姿勢で眠る夜。そこに気心の知れた猫が居てお互い安心しながら決まったポジションで寝ることの、この圧倒的な時間の豊かさを考えてみるべきだ。かわいいものを載せて寝てどこか痛くなるなんていう道理があるだろうか。

「どう考えても、かわいいものは痛くないだろう!」

しまいには怒りが湧き起こる。ゴロゴロ言う子狸みたいなあの生き物が私の体に痛いはずはない。これはきっと気のせいだ。

 

今夜はかすみ草を隠して眠ろう。そして、うちの猫ちゃんは2グラムだと信じて眠ろう。かわいいものが、痛いはずがないさ。

 

 

猫町へ人体模型を売りにゆく   水野真由美

 

おや、風邪ですか。

黒猫が窓辺でくしゃみをする。

おや、風邪ですか。と声をかければ、猫は振りむきもせず屋根から落ちる雪解けの雫をいっしんに見つめている。

真っ黒な毛並みの日の当たるところはうっすら茶色く光り、どっしり座った下半身とわずかな肩甲骨のデコボコがかわいいゴリラのようなくびれ。

触れてみれば「こんなに炙って大丈夫かしら」と不安になるほどぽかぽかに蓄電して、猫はこれからめいっぱい春の予定を立てている。

今年も猫草植えようね。

ベランダを出たり入ったりまた出たりしよう。

黙っておなじ日差しを見ていると去年と同じ春が一緒に過ごせる予感で胸がいっぱい。

元気でいなさいよ、今年も元気でいなさいよ、もっといっぱい遊ぼうね。

ぽたぽたぽたと軒から落ちる雫の合間に、猫がまた「くしゅん」とひとつくしゃみをする。

おや、風邪ですか。

 

Netflix『三体』 ~猫ちゃんは無事だったのか

ネットフリックス版『三体』全八話、3日くらいであっという間に観おわりました。そしてうっかり二周目突入中。


www.youtube.com

 

見始めた頃は「話を整理するために登場人物を分割してキャラクター増やしたのか!」とびっくりしながら観ていたもんですが、なんと見進めにつれ「アンタ、あの人だったのっ」というシーンが次々登場。みんなそれぞれ原作にいる人たちだったので二度びっくり。

原作『三体』は400年という長い時間を扱うので時代時代のメインキャラクターが次々出てきてわりと混乱するんですが、なんとそれらのキャラクターがいっぺんに出てきていた、ということだったのです。よくもここまで脚本揉んだねー。

地球を守るタスクフォースがなぜか全員仲良しグループ、ということでぐっと宇宙が狭くなってしまうという弱点はあるものの、ひとりひとりの性格が際立ってこれはこれで良かったです。

 

人物相互のつながりをだいぶフォーカスして描いた結果、終盤の山場でもある「好きな人の脳を宇宙空間に放り出しちゃうシーン」が、だいぶ哀切にかかれていて切ない一方で「でもやっぱりこの展開って漫画的なおかしみあるよなあ」という側面も同時に際立ちます。やっぱりもともと変なSFだし、映像にするとわかりやすく変。

ジャッジメントディの襲撃シーンも、なかなかゴアで感動させられる一方、「猫ちゃん乗ってたよね。猫ちゃんどうしたっ?」という深刻なハラハラ要素もあります。襲撃中の猫ちゃんは映らないので一応愛猫家の皆様も観て大丈夫ではありますが、どう考えてもカメラアウトではどうかなってるはずではある、というさすがゲーム・オブ・スローンズチームの容赦なさ。

 

中国版のドラマも私は大変好きなんですが最後の2,3話が「ちょっと雑になってないかい?」という印象を持ったのが残念な点でした。その点ネットフリックスは息切れしないまま最終話までぎゅうぎゅうに外連味を詰め込んで駆け抜けた感じ。

本当に面白かったので、一刻も早い続編が待たれます。

 

メインは第一部くらいまでのストーリーだろうと思ってみていたら「二部のいいとこ」まで進んでおりました。

 

柾屋根、トタン、瓦屋根

「北海道開拓の村」という野外博物館にある渡辺商店という建築物は、父が子供の頃教科書などを買いに行った雑貨店だという。

開拓の村 渡辺商店

北海道開拓の村

 

「壁は白いし瓦が珍しくて、立派だなあ、と思って見ていた」と父はいう。

言われてみれば北海道では、どの時代をとってみても漆喰壁と瓦屋根など極端に珍しいはずだ。

雪の多い地域で重い瓦など屋根にのせれば、大雪の日に建物ごと潰れないかヒヤヒヤさせられるだろうし、氷点下20度にもなるような環境では漆喰もあっというまにひび割れそうである。

どれほどの手間暇財力と痩せ我慢をかけて維持した建物であったか想像すれば、教科書を買いに来る町内の小学生を無言で威圧するくらいの押し出しがあったのもうなずける。

 

瓦の普及しなかった北海道の屋根がどうなっていたのか聞けば「トタンが出てくるまではまさ屋根」だという。

「まさ屋根って何」

「まさ屋根。知らんかぁ。お前、モノシリなのに柾屋根知らんか」

こちらは40半ばにして不意に「物知り」呼ばわりされたことに危うく受け身を取りそこねた。

「物知り」は口が達者で聞きかじりの知識をひけらかしたがるタイプの幼稚園児などに、周囲の大人が持て余し気味に言うごく一般的なお愛想だ。親ってその程度のことでも「ひょっとしてうちの子は賢いのではないか」という希望を半世紀近く諦めきれなくなるものか。それは申し訳かった。

 

しかし父は物知りならざる娘のために柾屋根について熱弁してくれる。

「木の板をすごく薄く切ってちょっとずつずらして重ねていく。全体としては5,6枚分の厚みになるように」

「木の屋根?雪で腐らない?」

「だから数年おきに職人さんが来て葺き替える。釘いっぱい口に含んでこうやって……」

父は口に含んだ釘をモゴモゴやって一本ずつ出す様子を再現した。はあはあ、口から釘を出す大工さんは私も見たことありますよと思ったが、どういうわけか父はやたら熱心に「口から釘を出す大工の物真似」をやめない。

口をモゴモゴし続ける老人と、それを見せられる娘。なんだこれ。

 

今でも物を作ったり直したりすること全般に好奇心の強い父のこと、きっと定期的に来ていた職人さんのその仕草がとりわけ不思議でかっこよく、家の前に出て飽かず眺めたのではないか、と呆然と見つつ私は思う。

それから父は丸太をどう切り出せば柾目と板目の材木が取れるのかをペンをとって図解で説明した。柾がどれほど”いいところ”なのか。

「ある時からトタン屋根に変わって葺き替えもいらなくなった。あれはいいな、丈夫だし雪が勝手に落ちるから」

 

父はそう言うが、町内の屋根がいっせいにトタン屋根に変わった時期、たくさんいたであろうそのかっこいい職人さんたちはどこへ行ったのか。

知った上であらためて見ればたしかに柾屋根も多い「開拓の村」の古い建築物はずいぶんダイナミックに雨漏りしているものもある。きっと直せる人の数は少なく、維持だけで膨大なコストのかかる古い建物郡の修理の予算は少ないのであろう。

 

時の流れとともに失われてしまうものは多くあるが、当然と思っていた日常風景の中で少年の心を捉えたまま何十年と離さないほど見事な手さばきだったのだとすれば、それは見てみたかったな。

 

 

www.kaitaku.or.jp

最近は『ゴールデンカムイ』の舞台、ロケ地として人気が出てきている模様。