晴天の霹靂

びっくりしました

秋のやわらか充電池

昼前のひだまりの中で猫が立ち寝をしている。

正確に窓の形を切り取って伸びてきた秋の太陽の中に、黒猫はちんまりと座って、そのままゆっくり目が細くなっていく。

「子猫がよくする眠り方だけど、うちの子の立ち寝は久しぶりに見るな」

とオムレツ食べてる手を止めたら、気配に気づいた猫がぱちっと目を開ける。

そうしてまた、うっすらうっすら閉じていく。

夢とうつつの境目をたゆたうのが、一番気持ちがいいのだろう。

食事を終わって皿を洗って、また見たら今度は光の長方形の中にぴったり収まって猫らしく寝ている。

黒い毛並みはいかにもホカホカとしており、実はこの子は斬新な形状の充電池なのかもしれない。

夏は高温を避けて部屋のあちこちでぐでんぐでんと伸び切っていたものだけど、この季節にプレゼントのように差し出される日向は、ありがたくって大事に取っておきたい気持ちになるもんだ。

そうやって蓄熱した太陽は、冬の寒い日にちょっとずつ取り出して使えるといいね。

 

パソコンの前に移動すると生意気に「あー、忙しい忙しい」という感じでついてきてイソイソと膝に乗る。

やんわりした重みと暖かさを含んだ毛並みをなでながら、パソコンは放置して秋の澄んだ青空を見上げる。

秋の午後なんか、猫を撫でているだけで一瞬で終わってしまう。

「にゃーん……うん」の秘密

うちの猫は、猫としてはわりとよく喋る方である。

何が伝えたいことがあって話しかけてくるというよりは、放っておいて私が怠け者になることを危惧しているようで、やれ「窓を開けろ」「餌を入れろ」「膝を差し出せ」「こっちへついて来い」「枕をよこせ」と思いつく限りの用事を言いつけてくるためだ。

こちらとしても、無給で居ていただいているわけではあるし、できるだけ要求には答えるようにしてはいる。

 

「にゃーん」と声をかけられたタイミングで「はい、なんでしょう」とテンポよく下手に出ると、ヨロコビのあまりにあくびが出ることがしばしばある。

言葉で感情を現すことをしない猫は、喜んだり照れたりするときにあくびをすることが多い。

長めに「にゃーん」と言ってる途中で私が振り向いて話を聴こうとすると、後半戦がそのままヨロコビあくびと混じってしまい、最終的に変な声が出るのを目撃するのが、猫に仕える日々を送る私最大の萌ポイントなのだ。

可愛い声で「にゃーん」を言い終わった直後、小太りのおじさんみたいな声で「……うん」という声が出るときが、最高である。

猫を笑ってはいけないというのは猫と人との間の基本的なマナーであるが、「にゃーん……うん」に関しては不可抗力な面白さだ。

自分でも「今、やたらおもしろい声出たな」くらいのことは自覚しているのか、笑われてもあまり恥ずかしそうな様子はしないので、遠慮なく笑う。

 

先日、猫を部屋に留守番させたまま、飼い主はひとりでレイトショーの『ロッキーVSドラゴ:ROCKY IV 』を見に行った。

よく考えてみれば平日のレイトショーでロッキーを見るというのは、それなりにむくつけき客層にはなるわけで、「思ったより観客入ってるな」ということと同時に「おやおやちょっと場違いだったな」ということにも気づいた。

スクリーンのど真ん前に座ってもぞもぞしていると、なんとなく気まずい感じのくしゃみが出る。

一瞬のうちに、コロナのこととかマスクのこととか、女性客が他にいないっぽいこととか色々なことが頭をよぎり、押し殺す方向で慌てた結果なんだか踏み潰したみたいな音になる。

「まずい、変な声出た」

と思った瞬間にカモフラージュの空咳が混じって事態が複雑化、「謎のうるさい空気が喉から立て続けに出る迷惑な人」という最も不幸な地点に着地した。全観客の真ん前で。

 

観客のみなさんは私の背後で静かにロッキー4が始まるのを待っている。

「こういうときは普通に笑われた方がいいものかもしれないな」

と、私は劇場の暗闇で背中にプレッシャーを感じながらうちの黒猫の面影を思い浮かべている。

 

 

『ロッキーVSドラゴ:ROCKY IV』~自転車で帰ってくるの向き

北海道でもようやく公開になった『ロッキーVSドラゴ』を見てきましたよ。

いやあ、楽しかったけど、なんだったんだ。


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誰でも知ってる話を何十年もたってからスタローンが一人で再編集したっていうから、こちらも色々と予断を持って見に行くわけです。

エキシビジョンとはいえアポロがなぜあそこまでドラゴをなめてかかっていたのか謎だったからそこらへん明らかになるのかしら、とか。

最後のロッキーの唐突な演説があまりにも意味不明だったからもうちょっと観客に伝わるようにするのかしら、とか。

 

結果、どっちでもなかったので「おーっとお?」となりました。

色々うろおぼえながら、オリジナル版とどこが変わったのか思い出すに、印象では「アポロ大好き」と「ポーリー大好き」部分が増量しておりました。

「あえて今編集し直した意味は」みたいな方面で考えると大いなる謎が残るけど、ロッキーの良さという面では増えたのではないだろうか。

やはり男同士でわっしょいわっしょい愛し合ってこそのロッキー。

 

とくにポーリーが「俺の方が似合う」とかわけのわからないことを言ってエイドリアンの耳あてを盗んできちゃうところとか最高でした。

異国ロシアでの訓練でエイドリアンがいなくて寂しいだろうという心遣いなのか、何も考えずに思いつきで振る舞ってるのかわからないところがポーリーの素晴らしさ。

「ロッキーってエイドリアンを妻にするために結婚したんじゃなくて、ポーリーと兄弟になるために結婚したんじゃないだろうか」

とすら思う胸熱シーンと言えましょう。

 

もっとも気になるのは最後の謎演説ではあるのですが、その前の、試合中にロシアの観衆がロッキーコールに包まれてしまうところも本当にわけがわからないですね。

「なんでだよ、ドラゴめっちゃ頑張ってるじゃん!」

と、大変気の毒な気持ちになります。

なんだかんだで試合はギリ勝って、ロッキーったら調子良く

「俺たちは殺し合ったけど、200万人が殺し合うよりいい。みんな変われるんだ」

とか謎の演説、満場のロッキーコールを背にドラゴに声もかけないまま星条旗を身体にかけて退場していくロッキーに

「ちょっと!」

とツッコミの声が出そうになることです。

そこはどう考えてもロシア国旗を身体にかけてドラゴに声かけてやっとちょっと意味が通るかもしれない演説だったのではないのか。

それで映画が面白くなるかどうかは別として、あまりにも自分だけ気持ちよくなって言い逃げするロッキーには「……文脈?」という気持ちだけが残るのでありました。

本当に、そういうところだぞ。

 

まあそうは言っても概ね楽しい映画なのは間違いないのです。

映画館からの帰りはいつもの上り坂。しかも向かい風。レイトショーだったので自転車の照明まで点灯してるとあって道の半ばですでに太ももがパンパンになってくるわけですが、ロッキー見た直後だけはさすがに無意味に頑張れるものですね。

虎の目をして気持ちよく立ち漕ぎで帰ってくる秋の夜道でありました。

 

『ゴッド・ファーザー』~さてはマーロン・ブランド、思ってたより若いな?

久しぶりに『ゴッドファーザー』を見返していたには理由があったのです。

友人が娘(中1)に

「ためしに『ゴッドファーザー』を見せてみたらすごい不評だった」

という話をしていたので

「そりゃあそうだろう」

と即答したのですが、そもそもなぜ「そりゃあそう」なんだろうか、と、我ながら気になったのでした。

私も、見るのは3回目くらいの気がしますが、何回見てもおじさんが多すぎてマーロン・ブランド以外見分けがつかないんだよなあと、ついぞ思ってきたもんです。

今見ると、おじさんたちのシミ・シワ・たるみをかっこよく撮ることにひたすら専念されており、そのあたりに全然興味が持てないお年頃で見ても本当になにがなんだかさっぱりわからん映画であるな、ということが発覚、深く納得したのでありました。

一方で自分が年齢的に被写体に近くなってくると

「あれ、マーロン・ブランド、老け役だけどお肌のハリから察するに実年齢わりと若いぞ?」

なんてことが見えたりして、やっとちょっぴりおじさんの区別がつきはじめたりします。

「お、こっちのたるみは本物だ」

なんて、枯れっぷりを鑑賞するうちに、なるほどこれはなかなか他にはない圧巻の絵面。

 

そもそも若い美男という話でいけば、青年アル・パチーノが出ておるのではありますが、単なるボンから大物マフィアに脱皮するまでの演じ分けが見事過ぎるあまり今までは逆に同一人物であることをいつも見逃していた節がありました。

なにしろこちらはおじさんの「区別をつける」ほうに集中しすぎていたので「違ってみえるけど実は同一人物」というパターンがあることにまで気が回ってなかったのです。

 

「アレはコレの進化系である」という理解を踏まえて見ていると、脱皮の過渡期に鼻を折られているせいでずっと片手にハンカチを手放せない、あの不自由な感じなんか実はなかなか良いではないの。

スピルバーグの映画における喘息の吸引器みたいな、成長期の不自由さの表現って見るとちょっとキュンとくるところがあるもんです。

なんなら中年超えても、老眼だ白髪だ乾燥肌だと、成長するのは一生涯大仕事なんであるからして、いくつであろうと呪術的な小物を手放さない人を軽んじるものではないのであるな。

 

そんなわけで、こちとらだいぶ久しぶりに『ゴッドファーザー』をちょっと楽しめる境地に達していたことを再発見したのでありましたが、同時に気づいたこともある。

中1の女の子がこれ見て全然楽しめなかったとしたら、まあある意味それはそれでめでたいことなんじゃあるまいか。

シミ・シワ・たるみを愛でるより、もっと見て楽しいものが世の中にいっぱいあるなら、それはそっちの方がいいことのような気もするもんねえ。

 

来るなと言ったではないか

葛の花来るなと言つたではないか  飯島晴子

お手洗いの俳句日めくりを破るといきなり誰かが愚痴っているの愉快な一日だ。

「……来るなと言ったではないか」

と思う日は、おそらく誰の人生にも季節の変わり目ごとくらいにはある。

こちらが「来るな」と思ってるんだから当然相手も「来たくない」と思っていそうなもんだが、世界におけるそういう連絡はどうなっているものか。

ツルでのびのびと増えて秋に咲き誇る紫の花を見た瞬間に

「あーっ、来るなと言ったではないかあっ!」

と、突如堤防決壊する心情は容易に想像できて面白い。

それでも人間は、社会的な生き物である生物であることからは決して逃れられないのであるからして、まあなんとかやっていこう。

 

眼鏡を買った。

7歳頃から眼鏡を作り始めて人生でいくつ作ったろうか。

一番最後に買った眼鏡は、たしか5万円くらいのもので、考えてみれば10年も前だろうか。もはやボロボロである。

JINSやらZoffやら出てきて眼鏡は安くなったのだという話を聴いてはいたが、検査終わってフレーム選んで、支払いのときには本当に膝から崩れ落ちるほど驚いた。

「眼鏡作って八千円でお釣りが来る時代になっていたとはっ!」

もちろん、フレーム選びの時点で割と安いとは思ってはいたが、我々年季の入った眼鏡っ子は身にしみて知っているのだ。

「この度数ならちょっと薄いレンズにしないと瓶底眼鏡ちゃんになってしまいますので薄型にしましょう」

「フレームからはみ出ないようにレンズの端をけずる加工が必要ですね」

「軽いプラスチックにしたほうがいいですよ」

などと色々言われてるうちにいつの間にか値段が倍くらいになる、眼鏡というのは恐ろしい買い物なのだ。

 

というつもりでいたら、本当に書いてある通りの値段を請求されたのでなにか間違えてるんじゃないかと思った。

価格破壊というのが決して社会に良いことではないのは30年かけて学んできたことではあるが、しかし眼鏡がこんなに買い替えやすいファッションアイテムになっていたということに関しては、正直結構心が踊った。

使い捨てコンタクトと比べても、毎年作り変えられるくらいの値段ではないか。

 

眼鏡店の人の、面白い話を聴いたことがある。

男性が女性の眼鏡を選ぶと、ダサいものになるんだそうだ。

なぜなら、男性は「眼鏡かけてるとちょっとダサく見えるけど自分の前で眼鏡を外すと実は美人」という設定が好きだから。

ゆえに眼鏡は男性の意見を聞かずに自分でおしゃれだと思うものを選んだほうがいい。

 

昔、ベストテンという歌番組があって、中森明菜がカジュアル眼鏡姿で出てきたことがあった

でっかい黒縁セルロイドのうえに明らかに鼻までずり下がっていて全然顔にあっていないのが今でも記憶に残るほど印象的だった。

二十歳ちょっと超えたくらいだったろうに、ダサさの出力まで自由自在なくらいセルフイメージが確固としてるというのも、たしかに並外れた才能だ。

 

新しい眼鏡をかけて街のあちこちに映る自分の姿を「やっぱりこれちょっとダサいよな」と、見ながら思う。

やっぱりこう、面白いってのはダサさなんだろうな、やっぱりな。

あと白髪が増えてくるとまた眼鏡も似合いやすくなるのかもしれないしな、うんうん。

 

 

 

 

『ロード・オブ・ザ・リング』~IMAXって画面が隅々までみっちみち

 

ロード・オブ・ザ・リング』のIMAX上映を見てきたんです。

IMAXはやたら高いから、普段はわざわざ避けてばかりいるんですが、すげえ映像を見るとすげえなあ、やっぱり(ところでIMAXってなんなんだろうか)


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この映画自体は、見るのは3回目くらいなんです。

最初見たときは情報量が多くて話の内容がさっぱりわからなくってね。

「9人は人数多すぎだろう。ゴッドファーザーじゃないんだからっ」

などと言ってるうちに終了。

最近になって、どうもこのシリーズがまたちょっと流行ってきてるらしいというムードを嗅ぎつけてアマプラで二回目を見たら、なかなか面白いじゃないですか。

面白いのもさることながら、そういえばどうもこれは映像がやけにすごいぞ、ということにようやく気がまわるようになって、念のためIMAX上映も見にいくことにしたのです。

 

魔法使いなのにどうして走って逃げるのガンダルフ

 

本当にすごかったです。

なんならガンダルフホビット庄に来るだけで綺麗すぎてもうちょっと泣いてる。

さらには、奇抜な衣装着てるわけでもないのに、どこまで画面を引いていっても「あそこにいるな」とすぐわかる若き日のオーランド・ブルームの極端な立ち姿の美しさたるや。

179分もあるものだから旅のパーティ組む前からすでに膀胱にサスペンスかかり始めることも手伝って、自宅のモニタで見てるのでは味わえないレベルの手に汗にぎる鑑賞体験でした。

 

「やるな」と言われたことはだいたいぜんぶやるピピン。私も末っ子だったのでわりとこういう役回りの人生であった。

三回見て良かったのは「だいたい思いつく限りの余計なことは全部やる」ピピンです。

『ロッキー』におけるエイドリアンの兄ポーリーが思いおこされる。

「余計なことしかしない人がウロウロしていてくれるから、自分はちょっと無理して意志を強く持っていられる」っていう人間関係の機微が織り込まれてる話ってのは大人の物語だなあ、と思います。

本当に、我こそは、という役に立つ奴だけで9人のパーティ組んだらどれだけ悲惨なことになろうことか。

 

あまりにも悪女の顔をしてるので三回見てもどういう人物なのか理解できないケイト・ブランシェット。ゴミを見るような目でこっちを見てくるで賞。

 

面白いけどとにかく長くてなかなか見返せないので、このIMAX版の上映を機に三部作見返してしまおうと思ったのでありました。

 

映画に比べると一直線に話が進まないので実は意外に読みにくい原作。ついでに読み返しております。

 

 

 

秋晴れの下の猫

日差しの下に居る猫は抱きまくら。

我が家に猫が二匹居たときは、私が布団に入るやいなや二匹ともイソイソと寄ってきて脚の上に縦列駐車になっていたので、横向きに寝るなどという贅沢は許されなかったものだ。

切なくも家族が一匹減り、残された黒猫の方は新たなる寝床を私の頭の横と定めたために、私は猫型抱きまくらを抱えて、本物の猫の尻のあたりに顔を突っ込むようにして寝るようになった。

うちの猫は自分のペースで膝にのってくるのは好きなくせに、私の気分でだっこさせてくれることは決して無い。

だから、実の飼い猫の匂いをかぎながら猫まくらを抱えるのである。

「お前、これじゃ猫を飼ってる甲斐がないよ」

とは、思うような、思わないような。

 

冬までにこれほどの日差しがあと何回、と思うと近頃は隙あらばいろんなものを日差しの下に並べてしまう。

布団も、枕も、抱きまくらも、クッションも。

ふかふかするものを全部取られた黒猫は、一体どこで昼寝をしたら良いのかと不満げにしばらく騒ぐが、日差しの匂いをたっぷり吸った布類を、私より好むのはもちろん猫のほうである。

 

猫枕と並んでお前も日向ぼっこしたらいいじゃないか、と誘っても、彼女は猫のぬいぐるみはあまり好まない。

一番好きなのは新聞、それから厚い本。そして私の使っている枕を奪い取ってさっさと尻を向けること。