晴天の霹靂

上品な歩き方とかを習得できないまま人生を折り返すとは

『積ん読の本』~あの人が積んでくれるから私は安心して積まない

 

暑いと文句を言ったり、猛烈に風邪をひいたり、龍角散をふた缶飲み切ったりしているうちに、いよいよ今年も下半期。

まるで発売日を待っていたかのように買ってしまった下半期一冊目の本『積ん読の本』である。

人の本棚が写っている本って、どうしても気になる。しかも、この本はいかにもおもしろそうな本棚の写真が表紙なので、つい拡大して凝視してしまうようにできている。そんなもの、見てるうちに買ってしまうに決まってるじゃないか。

 

人の本棚はどんなものでも面白いが、願わくば整理されてなくてごちゃごちゃしてればしてるほど良い。整理されていると「所詮、整理できる程度の情報なんだな」などとちょっと軽んじてしまうところがあり、それというのも自分がそもそも整理できる量の物質しか持てない体質の人間だからだ。

どこに何があるのか把握できなくなるとパニックを起こしそうになるので、こんまりがこんまりメソッドと言い始める前からわりとこんまり的な人間である。

 

そんな体質の人間にとっては「本」というとすなわち電子書籍のこと。物質として場所を圧迫しないし、ダウンロードしたものは自動的に整理されていく。必ず履歴が残るから同じ本を二度買いすることもない。紙の本は図書館から借りてきて、期限が来たら返すので家には積まれない。そんな自分を「実につまんねー人間だな」と思っている節は、確実にある。

 

本棚に収納するかどうかもまだ決めてない本を入れる箱が天井高さまで積み上げられている、とか。もはや家に入り切らないのでベランダにおいてある、とか。はたまた玄関に積んであるとか。そういう話を読むと「立派な人じゃないか!」と思う。しかし私にそういう生活は無理なのだ。

そんなことを思いながら、本に侵食されている本棚を次々拡大しながら読み進んでいくと、英文学者の小川公代さんのところで手が止まる。

 

現代においても、女性が自分の自由になる空間やお金やお金を得ることは容易ではない。小川さんが思い浮かべるのは、和歌山に住む姉のことだ。「姉はパートタイムで働く主婦です。私とおなじように海外の大学を卒業しましたが、結婚後は家事と子育てに専念してきた。アガサ・クリスティのミステリー小説が大好きな姉の本棚が家のどこにあるかというと、リビングとダイニングの間においてあるんですよ。自分だけの部屋がないから。いつもそれを見て、胸が締めつけられる思いがします」

 

これはよく分かる痛みの話である。やはりパートタイムで働く主婦だった私の母は、本棚どころか、結婚後はおそらく自分の本を一冊も買ったことがないまま生涯を閉じた。それを見ていた私はなんとなく、母はもう人生が終わった人なのだな、と思って育ったのだ。

長じて自分ひとりのための部屋を借り、本を買っている私なら、玄関でもベランダでも床でも天井でも、好きなところに好きなだけ本を積んでいいはずなのだけど、そうしないことの中にはやっぱり女系の血縁の中で受け継がれてきた”場所を占めることに対する罪悪感”が、ないとは言いきれない。

 

読書は絶対にしなければならないものではありません。ただ、自由に本を読めることは人間の尊厳に関わると思います

 

本棚にもジェンダー論。これは本当に、絶対にあるのだ。そしてこういう形で本棚を眺める角度を提示してくれるのは、このムック本が石井千湖さんという女性が編んだものだからなのだろう。本の本の中でも興味深い一冊だった。