久しぶりに、きっちり風邪である、
とにかく喉が痛いのであり、「喉の症状だけなら日常生活に支障はないだろう」などと思っているうちに、寝ても醒めても痛いということそのものにぐったりしてくる。
保湿のために不織布マスクをつけたまま寝てはみても、朝起きたときには砂漠の果てようにカラカラになっており、餌をねだる猫に向かって「おはよう」の声がでない。
「うう、痛いよう。痛いよう」
と思っていると、元気は失われていくもので、なるほど人体にとってどこかが痛いというのはかく辛いことなのだ、と再確認する。
つばをのむのも痛いところに何かを食べる気にもにならず、喉のスプレーだけを便りに生きていると、ふとコロナワクチンの副反応のときの教訓を思い出す。
つまり「フルーチェは命の母」ということだ。
あの時以来買ってある非常用フルーチェをごそごそと引っ張り出し、牛乳とまぜて、しばし冷蔵庫で冷やして食べる。
つるんとした食感と冷たさが喉を撫でる感覚が気持ちいいし、食べ終わると即座にちょっと元気が回復するのも面白い。
やっぱり人間ってえらそうなこと言ってみても、単に食物を入れて燃やすだけの内燃機関なんだなあ、としみじみ。
ひとたび生まれたら最後、80年とかいう単位で燃やし続ける火って、なかなかのものである。
たいして集中力も続かないので、ちょっと用事をしたら、のどスプレーをし、ゲホゲホし、ぐったりし、思いついてフルーチェをアイスにすべく冷凍庫に移してみたり。
そうやって細い火で暮らす。
治ったら、非常用フルーチェを買い足しておかねばならぬ。