ワクチン三回目接種である。
前回までの経過から考えてどうやってもある程度の高熱で寝込むことになるであろうという予測はたったので、念入りに仕込みをした。
ポカリスエット、ゼリー、ヨーグルトを「さすがに多いかな」くらい買い込んで置くこと。
「幻覚の種」を仕込んでおくこと。
前回接種のときは、39度近くまで熱が出て2日ほど寝込み、独特の生まれ変わったような爽快感の中で目覚めたのは雨上がりの朝だったのだ。
コーヒーを飲みながらまぶしい朝の空を眺めていたら、何十メートル離れている道の向こうの電線に雨粒がびっしりぶら下がってキラキラ光っている様子がひと粒ずつ見えた。
なるほど高熱などの生物の非常事態になると、危機意識か何かで世界に対する解像度がちょっと普段と変わるのではないかと、その時私は思ったのだ。
滅多に出さない高熱を、どうせまた出さねばならぬならば、夢でも現でも何かびっくりするような光景を見たいものだ。
そんなわけでいよいよ熱が上がって言葉が頭に入らなくなるまでノワール小説を舐めるようにして読んだ。
巡回見世物小屋の団長の父と母。
傾きかけたサーカスを立て直すために妊娠中にありとあらゆる薬物から放射線まで試した結果、生まれてきたフリークの子供たち。
胴体から直接手足が生えているアザラシ少年、シャム双生児、アルビノでせむしで小人の少女、超能力を持つ少年。
美しいのはヴァラエティであり、ヴァラエティは価値を生み出すように作られている。
いろんな境界を楽々と乗り越え、フツウどもの心に揺さぶりをかけ、価値観を反転させる結束の強い家族の物語は、それでも崩壊してしまう予感の中で話が進む。
高熱のドサクサで価値観一発大逆転みたいなすごい夢を見られないものかと、お手軽自己啓発セミナーみたいなことをちょっとたくらんだのだ。
接種翌日の朝くらいから本格的に熱も上がってきたが、それよりも寒気と頭痛がやり過ごしがたく、どうにも他のことを考えている余裕がない。
「まさか人間そんなに寝てもいられないだろう」
などと思っていたのも浅はかなことで時々むくっと起きてトイレに行くのとポカリスエットを飲む以外は本当に夢もみずに丸一日眠っていた。
たまに猫が寄ってきたり離れて見守っていたりするのがうっすら意識の中に残っている。
「まあちゃん、ごめんね」
と声をかけると、いつものように指先を舐めに来たりするが、指先を出しておくのも寒い。
夢と現の境目あたりで、普段は出さないおかしな声でしつこく鳴いているのを聞く。
餌も水も十分に入れたはずだが、何かあったろうか。
明けて二日目の朝。どうやら熱は37度台まで落ちた感触があり、この調子だと午後には動けるようになるぞ、と思った程度には気分が軽い。
ビーズクッションに背中をもたせかけてちょっと起き上がって猫の姿を探す。
猫は距離を測りかねてキャットタワーから私を見ていた。
お前さんも怖かったろう、ごめんごめん。
そう思いながらさすがに一日でそこそこ荒れた部屋を見回すと、驚愕の。
先回りして言っておくとうちの子はトイレの失敗など一度もないわりと潔癖な子である。
たしかに布団から出られなかった昨日はさすがにトイレ掃除こそしてやれなかったが、うちは一匹で使うには贅沢なほど大きめのトイレが二台あるのだ。
1日2日なら掃除しなくてすぐに困る道理はない。
それがまさか熱で唸っている私の枕元に、こんな堂々たる置き手紙とは。
よっぽど、夢うつつの私とのコミュニケーションの取り方に苦慮したのか。
一切面倒をみようとしない私にムカついたのか、心配したのか。
「これはどういう意味でしたか?」
と掃除をしながら聞くが、別段悪びれたふうではなく、ただちょっと戸惑っている。
どういう意図にせよ、バーバルコミュニケーションに頼らない彼女にとってはかなり最終手段の意思表明ではあったろう。
「とにかく悪かった。しかし動くと頭がふらふらするから午後まで寝せてくれ」
筋肉注射で腫れている左側を上にしてもう一度横になると、猫はおずおずとやってきて足のほうから体を登ってくる。
顔の近くまでやってくると、いつも通りゴロゴロ言いながら両手でふみふみし始めた。
うおっ、ちょっと待て。そこはちょうど注射された……
これ以上猫を不安がらせるわけにもいかず、ぐっと悲鳴を飲み込んで注射跡を猫に揉ませておく。
予想とはだいぶ違ったが今回も高熱のおかげでだいぶ珍妙な風景が見られた。
愛と結束と混沌たる我が家の証。
(接種翌々日の午後にはほとんど元気になりました)
記念。