晴天の霹靂

びっくりしました

『ゴジラxコング 新たなる帝国』~それ、わっしょいわっしょい

公開前から「毛穴からIQが流れ出すほど頭が悪い」と評判だった新作、『ゴジラxコング 新たなる帝国』観てきてしまいました。

前評判は「映像が馬鹿っぽい」という意味かと思ってたら、中身もほぼなんだかわからなくてすごかった。大変だ。


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まあ、でも景気がよろしくてね。

オカルトとヒッピーと陰謀論者とオリエンタリズムで世界を救いましょう、となってくると

「下手に人間なんか出すからこんなことになってしまうんじゃないか」

という気持ちにはなりますが、そのへんは薄目でぼんやり観て、ゴジさんコングさんが出てくるところでワッショイワッショイなってる分には、よくこんなもの作ったなあと感心することしきりです。

今回のゴジラはうちの猫と同じ姿勢で眠るんです。

 

実は我が家も、ほぼ反社集団みたいな管理会社と喧嘩をはじめてほぼ3年。

あんまり低レベルで面倒くさいから、もうスルーしようかな、という気持ちになることも度々ではあるんですが、うちがスルーしてたら同じ管理会社の管轄にある独居老人世帯なんかなす術もなく同じことされるだろうし、それ考えると元気な私が怒るしかないだろうという義憤半分でなんとかやってきたことですよ。

そんな、努力して怒り続けなければならないモラルハザード後のこの世界において、なんか雑なストーリーの中でなんかめっちゃ怒ってるゴジさんコングさんを観て「よっしゃ、今度こそワシも取りに行ったるど」みたいな気持ちを奮い立たせるのは悪くなかったですね。

 

もはやこのご時世、フィクションたるもの弱きをたすけて強きを挫いてさえいればだいたい合格だろという気持ちになってきた。わっしょい。

 

焼くや藻塩の身もこがれつつ ~桜の木の下には親戚一同

年が明けてから一日一首くらいずつ読み進めている百人一首、97首目を読んでいた日は何があったかというと先日102歳で亡くなった祖母の納骨をしてきた。

 

私が小学生のときに亡くなった祖父はお葬式をやった記憶があるが、4年前になくなった母も、今年なくなった祖母も火葬だけされた。

市営の納骨塚には今や、私の母、祖父、祖母、と3人揃って入ったことになる。

「次は俺かな、お前かな」

と叔父と父が三分咲きの桜の下でガハガハ笑う。

自我を確立する世代とか、恋愛と性欲に神経回路を乗っ取られる世代とか、自分の成長の伸びしろに気をとられてる世代とかにはうっかりしてて全然気づかなかったが、生命はまっしぐら病と死に向かって伸びていてちゃんとハズレがないものだ。

来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

当時55歳の藤原定家が、恋人を待つ海女の乙女の気持ちになって詠んだ歌なのだそうで、「ははーん、すごいですね」と思うことだ。

こちとら46歳になって「あれ、恋愛よりも老いと死と墓の方がだいぶおもしろいかも」という気持ちになりかけているのだけど、あと10年くらいするともう一回恋になにかを仮託して語ろうかという気持ちを取り戻したりしてくるのだろうか。

 

そもそもこの歌がピンと来ないのは「藻塩」がわからないせいだ。

なんでも海藻を焼いて煮詰めて塩を精製するとのことで、それはさぞジリジリと暑くて磯臭い匂いがするのだろうという気がする。静かな海岸で塩が結晶してくるほどの恋というのは、たしかに五感に訴えて強烈な表現だ。

 

「水辺でジリジリ焦げる恋ねえ……」

と思っていたら、この表現はものすごく親しみのあるものだったことをふいに思い出した。1989年、私が12歳の頃、「ジリジリ焦げてるこの痛みを 冷たい水辺にそっと浮かべて」という歌詞が大ヒットしてたのだ。


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海女じゃなくて花柄の水着だけど、松帆の浦じゃなくてプールサイドだけど、歌の情景とテーマが『淋しい熱帯魚』と藤原定家でまったく同じだ。すごい。

そう思ってじっと見入ると、「ジリジリと身を焦がす恋」というのはなんとなく「死を想う歌」のように思えなくもない。

 

三分咲きの桜の下で納骨なんて行ってきたから、少し変わった気分になったのだ。

昔は沢田研二に似たイケメンだった叔父さんは、すっかり小さなおじいさんになって、私に向かって「大きくなったねえ」と言った。

 

 

 

『本は眺めたり触ったりが楽しい』 ~皮膚呼吸も読書のうち

最近めっきり電子書籍で読書をするようになって、よほどのことがない限り紙の本は買わない。

紙の本を買う理由は、電子版が出ていないものか、どうしても物質としてとっておきたいほど気に入ったか、無性に書き込みをしたい願望を掻き立てられるものか、である。

それ以外は、いずれ保存場所の問題で手放さなければならなくなってしまうので、デジタルで買うようになった。

だから私が主に書籍を紙からデジタルに移行した理由はだいぶ消極的な理由なのだけど、Kindle端末とアレクサの読み上げ機能のお陰で読書量は飛躍的に増えたし、読書量が増えたにも関わらず積ん読の方は飛躍的に減って、余計な罪悪感も持たずにすみ、めっちゃ快適な日々である。

 

そうは言ってもさ、「積ん読に対する罪悪感」ってなんなんだろう。

だいたい、読書家とか言ってる人だってそんなに無理に完読なんかしてなくない?

……みたいなことを書いてあるエッセイ。電子版が出てないのでわざわざ紙で買って熟読した。

そもそも私は「みんな口で言うほど本なんて読んでないよ」っていうことが書いてある本がえらい好きなのである。

 

なんだか自分以外の人にはすごい理解力があって、一回読んだ本はちゃんと理解できていて、だいたいの内容も記憶されているのではないか、と勘ぐってしまうのだ。

自慢じゃないけど推理小説最後まで読んだけど犯人が誰だかわからなかった、みたいなことって結構あるよ。みんなはそうじゃないのっ?

しかし世の中には「実はみんな口で言うほど読んでないよね」みたいなことを書いてある本ってまあまあの数出ているので、たぶん私はかなり普通タイプの読書家なのだ。

 

もうちょっと「気に入った本を買って家に置いておいて2ページくらいめくったら、それは読んだうちに入れて良し」みたいな感覚を普通に持っていった方が、読書は楽しくなるのではないだろうか。

積ん読も立派な読書となれば「罪悪感」みたいなものもなくなるから、読もうが読むまいが本も良く売れるだろうし。

『本は眺めたり触ったりが楽しい』はそういうおおらかな気持ちにどんどんなってくる楽しいエッセイだったし、まさに「モノとして持つ喜び」を刺激するかわいい挿絵もたまらない一冊だった。久々に紙の本として買って大満足。

 

そうは言っても、やっぱり私のように「本なんていちいち買っていたらあっという間に置く場所がないんだよ」という向きには電子書籍ってものはすンばらしい革新なので、

「統計によると本はデジタルより紙で読むほうが頭に入るらしいよ」

みたいなクソバイスをするカルチャーはぜひなくなってもらいたい。

世の中におもしろい本は山程あるんだからみんな好きな方法で読もう。あるいは読まないままで好きになっていいということを認め合おう。

 

 

私の救世主・電子書籍リーダーたち

漫画も雑誌も小説もアメコミも、どんなものを読んでも結構読みやすくてかなり安いFire10インチタブレットを一番愛用。なんかすぐ壊れるけど、言えばすぐ交換してくれるので、あんまり気にしてない。

 

 

 

外に持ち出すときと風呂で読むときはPaperwhite6,8インチ。軽くて「一応カバンにいれとくか」に対応できるのが神。バッテリーも長持ちするのでうっかりFireタブの充電が切れたときの頼みの綱としても欠かせない。大判の印刷物と漫画を読みたいときはかなり厳しいけど、軽くて小さいのって超便利。

 

花冷えの街

数日前にやっと「今年最初の桜一輪みつけた」と思っていたものが、気がつけばその木がちゃんと桜らしい色になっている。

季節外れのぽかぽか陽気になったあとでまた急に気温が下がっていた中、グズグズ言ってる人間をよそに、桜は桜で頑張って三分咲きくらいまで着実に時計を進めていたのだ。

 

「それにしても、なんか肌寒いよね」

と思う飼い主を尻目に「今年のベランダ活動解禁」と一人で決めた猫は、気温に関わらずベランダの戸を開けてやるまで朝夕の日課を諦めない。

寒くて我慢できなくなるまで、猫は4月の空気の中で目新しい情報を探すのだ。

さむいんですけどー。さむいよー。もう閉めちゃうよー。しぶとく催促を続けていると、突然猫はトトトトトと軽い足音で室内に駆け込んでくる。

「ああ、寒かった」と背中に乗った冷気を通して吐息が漏れている。言わんこっちゃないよ。

 

髪を自分で切るようになってから定期的に内側を刈り上げているのを、慣れからくる不注意で、うっかりバリカンにアタッチメントを付け忘れる。気がつけば右サイドを本物の丸刈りにしてしまった。

「……ん?……あれ?……あっ!!」

くらいのペースでやっと気づいたのだけど、どうせ伸びるし、わざわざ掻き上げない限り人に見えるところでもないし、まあ別に構わないだろう、ということにする。

そうは言っても、ニット帽を被って出掛けても、6ミリで刈り上げてあるところと直で刈り上げてあるのところではずいぶん体感温度が違うにはまた驚いた。

「寒い、寒いっ。でもこの夏はたぶんこの方法でしのげそう」

花冷えに震えつつ、一方で今年もいずれは来るはずである猛暑への算段も同時にはじめている。桜の季節の三寒四温

 

 

 

 

素晴らしきアングラ歌集

道外にどれくらい広まっているものか定かではないが、北海道ではパークゴルフというスポーツが、主に高齢者に人気だ。

北海道特有の「冬は雪捨て場になる空き地」なんかに夏の間芝生をしいて整備しておくと、誰かの家に余っていたゴルフクラブなんかを持ち寄って時間のあるお年寄りたちがプレイしにくるのだ。

無料だったり、ちょっとの年会費程度で使えたりするから、競技人口は結構多いようだ。

 

というようことを、父が「パークやってる」と聞くまで全然知らなかったし、結構おどろいた。どちらかというと父は「年寄りばっかり集まってゆるい運動なんてカッコ悪い」などと言い出すタイプの人だと思っていたからだ。

もしかしたら、「年寄りなんてカッコ悪い」というタイプの人だったのが人生のどこかで少しずつ思い直していったのかもしれないし、最初から私の誤解だったかもしれない。正直言うと、たぶん前者のような気はしてる。

 

パークゴルフをやるグループは2グループあって、片方は男ばっかり5人。もう片方は女ばっかり4人と男は俺ひとり。どっちも同級生」

「へー。どっちも同級生なのに一緒にやらないんだ」

「やらないな。男グループは俺が一番下手。女グループでは俺が一番上手いから、先生役」

「あー、なるほど。だから教えるのうまかったのか」

実は父と20年ぶりくらいに再会したばかりだった2021年頃、あまりにも話すことがなかったので、亡くなった母のクラブ(ほぼ未使用)を使って一度一緒にパークゴルフを体験してみたのだ。

久しぶりに自分の運動音痴を実感した瞬間だったが、見ている父はずいぶん気長に忍耐強かった。してみるとあれは、私よりよほど下手なメンツとプレイしなれていたせいだったのだ。

 

「男はしゃべることなくてみんな黙ってやるからどんどんうまくなる。終わったらすることないからぼそぼそ酒飲んでる。

女の方は喋るのが目的だからいつまでたっても誰もうまくならないけど、ゴルフ場が閉まってる冬の間も同じペースで集まってパン教室になる。」

あ、えー。なるほど!そうなの。すごい、なるほど。私はひどく感心する。実にありそうな話だ。

共同開催を誘っても男性グループのほうは「うるさいだろ」と言って参加したがらないそうだ。実際、女性グループはよく喋るので父は常に口を挟む間はなく、「このひとが話し終わったら自分も話そう」と待ってる間にいつも話題が次に移っているんだという。娘、大爆笑。

「でも月に一回くらいだからそういうのもいいだろ」

そう言って、なんとなく両方のグループに所属できる感性は実に立派なものである。

 

これ、と言って父が数枚程度のごく薄い冊子をみせてくれる。

「葉っぱ」というタイトルがあって厚めの紙でちゃんと表紙をつけてある。表紙には父も入ってる年配の女性たちのスナップ写真。おそらくワードで作って家庭用プリンタで印刷したものだ。

最初のページには、短歌とスナップ写真が配置されている。次のページには父の名をつけた短歌。その次のページからは、もうなんだかわからないLINEのスクショ画面だ。

「誰だかわからない人のLINEなんて読んでいいのか?」

とどきどきして私が戸惑っていると父は、これは一冊目の短歌集なのだと言う。

「作って送ってと言ったらわけのわからないものを送ってくるから仕方なくてそのまま載せた」

「え、これ全部短歌なの?」

言われてみると、そういうものを作ろうとしたのは薄々わかる。

ただし全然31文字じゃないから、どこからが普通のLINEの会話で、どこからが作品なのか、いくら読んでもわからない。

おまけにオリジナルの記号を降って「◯と◯はつなげて読んでください」などと書いてあり、自由すぎて読み方もわからない。

「すごい、これはすごい!」

と私は次第に興奮してくる。こんなに自由な詩集はじめてみた。

 

よく読めば、我が父の作品などは、切り取った瞬間も明確だし素直に書いてるから意図が伝わりやすくて作り慣れればどんどん面白くなっていきそうに見える。

しかし詩集の中でなぜか一句だけ俳句であることを気にしていないのはおもしろい。五七五で言いたいことを全部言えてしまったので、残りの七七を考えるのが面倒くさかったのか。

 

えー、これは素晴らしいねえ。私はためつすがめつしながら薄い冊子を何度もめくった。

「まだこれだけだから葉っぱな。そのうち増えていったら、万葉集にでもなるかもしれないだろ」

と、大喜びしている私に向かって父が説明した。

うまくなることを目的にしなくても集まってなにかできることの豊穣を、私は実にしみじみと見る。こういうものを作ろうと意図しては、こういうふうにはなかなかならない。

同世代の男子たちがどうやらあまり持ち得なかったらしい「ひとつの物差しの中で上位を競ってしまう行動原理」からの自由を、いつの間にどうやって父はのそっと成し遂げたのか。

 

「いやあ、すばらしいね。ほんとに続刊をぜひ」

なんとなく自分でもちょっと照れるくらい褒めちぎってしまう。

 

 

常にもがもな ~悲しみはさておきちょっぴり嬉しい

鎌倉右大臣であるところの源実朝という人は12歳で征夷大将軍に就いたはいいが北条の言いなりになる外の道はなく、不本意な人生をおくってるうちにたった28歳で暗殺されてしまう。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では世継ぎを作らねばならない身分だったにもかかわらず性的指向が同性のみに向いていることに苦しんだ人として描写されていて、その点においても大変に切ないキャラクター造形なのが印象的だった。

 

眠れないほど面白い百人一首

当時はまだ荒っぽい辺鄙な田舎だった東国で、おそらくは最下層労働者であろう漁師が小さな船を運んでいくのを見て強く孤独を感じてしまう青年像というのは非常に悲しげなものがある。

それはそれとして、この歌をよむと「もがもな」の音を思いついたところで「よっしゃー、この歌はもらった!」と心のドヤ顔出しまくりだったんだろうな、という気配もぷんぷんとあるのも一方でかわいい感じがする。

たしかにいいよ、「もがもな」のところと、「綱手かなしも」のところ。

 

本人がどれだけ孤独で辛い未来しか思い浮かばない人生を送っていたとしても、それでもいいこと思いついた瞬間瞬間には、また別腹でさぞ浮かれたことであろうと思うと、人間って多元的な存在でいられて良かったよねえ、という気になる。

実朝はしんみりかわいい。

 

君は言ういつもにゃにゃにゃにゃこの狭い箱から何もなくならないで

 

 

 

 

わが袖は ~石に寄せる恋

今年は百人一首を毎朝ひとつずつ読んでいる。

正月を少し過ぎたあたりから始めて、なんだかんだ忙しくて読めない日があったとしても桜が咲く前には百首読み終わるだろうという見当で始めた。

北国の桜はまだ見かけないが、全国的にはもう散り終えた地域の多いこの頃で92番まで来たのだからだいたい計算通り進んだことになる。

 

百人一首は几帳面にも年代順に並べてあるから、最初好奇心で読みはじめ、だいたい慣れて来た頃で爛熟の王朝時代が来る。こちとらさほど歌の良し悪しがわかる教養はないが、現代人でもわかる感覚がぐっと増えてくるし、名前のわかる大スター歌人も増える。おまけにちょっと調べれば「この人とこの人が血縁で、こことここは付き合っていたんだってっ!」というゴシップネタでもひとしきり遊べる時代が2,3世代分は続いて楽しい。

 

そういうのもわりと落ち着いてきてしまって、「よく知らない歌人がネタ切れめいた世界観で手練れの歌を歌っておる」と素人としては思ってしまうようなものがまた続いてきて眠くなるのが80、90番代という気がする。(先人たちに申し訳ないが、歌は作るより読む方がよっぽど難しいらしいので、不肖私にはそういうことになる)

 

いくら眠気覚ましのコーヒーを飲みながらとはいえ、朝からピンと来ない31文字を見つめているとまた眠くなってしまうので

「いっそトリビュートしてけばいいんではないか」

と、思った。

歌が、作るより読むほうが難しいならば、読むより作る方がお得ってことではないか。

わが袖は汐干に見えぬ沖の石の 人こそ知らぬ 乾く間もなし

「石に寄せる恋」というお題で詠まれた歌らしい。

いつも同じ環境でだいたい同じメンツで歌を作っているので「そろそろネタが切れてきました」という感じがして面白い。飲み会もこういう感じになることがある。

どんなものにまで恋を寄せてみることができるか、という思考実験は現代のBLカルチャーとか転生モノとかにまで続くようで、結構いい歌でもあるように思うのだけど、それにしても「涙で乾く暇のない袖」っていう王朝が好む恋の表現は私はあまり好きではない。「そんなに泣かないだろ」とも思うし、陰にこもった恨みがましい表現のようにも思える。

 

ぬばたまの猫は夢見る沖の石 光る毛先に踊る竜宮

涙で袖を濡らす嗜好のまったくない私は、近頃は起きると隣で枕を奪って丸くなっている猫の腹のあたりにとりあえず顔をうずめることにしている。

こちらも猫も寝ぼけているから、もはやどこからどこまでが人でどこからどこまでが猫なのかわからないようなフィット感である。

この溶け合う信頼関係は猫を飼っている無常の喜びのひとつではあるが、どの猫を飼ってもこういう朝に必ず恵まれるわけではもちろんない。

朝はテンションがバク上がりで全然隣で寝ぼけてくれない猫もいるし、顔を寄せられると照れる猫もいる。また先代うちで暮らしていたトラ猫は毛が短く固くて朝から顔をダイブさせたくなる毛並みとも少し違った。

どの猫と暮らしたらどんな幸福がもたらされるのかは、あらかじめ計算できない奇跡である。

 

朝イチでしばらく黒い毛並みを吸ったあと、のそのそと起き出してコーヒーを飲みながら「今日の百人一首」を開いて読む。

なになに、石に寄せる恋か。けったいなこと考えるね。

石かあ…石ね…などと考える私の隣の部屋で猫はまだ夢の中に深く沈んで幸せそうに光っているのだ。石に寄せる恋。