「滅多なことは口にできない」
と、男は言った。不動産管理会社若手社員である。
「滅多なことは口にできない」
電話口で聞いていた私もびっくりしてオウム返しする。
そのボキャブラリーがすぐ出てくる引き出しにひょいと入ってるの、すごいな。
今週中に進捗状況報告の電話を一本もらえますか、と私は頼んだのだ。
「そういう言った言わないになる口約束はできない」
という答えが返ってきた時点でもう、ちょっとおもしろかった。
半年前からの我が家の風呂場の階下への漏水である。
管理会社は直ってないのを知っていて半年放置して事態を悪化させた上、なおもけつまくって逃げきろうとしている立場。
電話応対する人が大変やりにくいのは重々想像がつくし、だからできるだけ柔らかい口調でしゃべらんとこちらも頑張った。
オールナイトニッポン時代の中島みゆきに似てると言われてきた口調を駆使して
「民法608条に費用の償還請求権ってありますよね」
とかやってみる。
いくら口調がみゆきでも、相手は立場上失言しないように緊張を強いられる場面だろう。
ましてや法律知識も全然ないようだ(不動産会社なのに「賃借物」が読めなかったのはちょっとびっくりした。どうやって避けて通ってきたんだろう?)
とにかく「確認します」「確認します」だけで話が全然進まないので、確認して今週中に報告の電話をもらえますか、と言ったのだ。
むしろこうとしか言いようがないくらい普通の提案だと思って私は言った。
それに対して彼はいう。
「水道管が破裂してお部屋の中が滝みたいになっていたり、警察から安否確認の呼び出しがあって遠くの物件までいかなければならなかったり、部屋が停電していたり、今すぐいかなければいけないという用事がたくさんあるのでいつ電話できるかはお約束できないです」
「今週末までずっと緊急事態ということですか」
「そういうこともありますよね」
滝みたいな部屋で呆然とする彼、警察に色々聞かれる彼、電気のつかない部屋に佇む彼を想像すると、まあたしかにちょっとかわいい。
しかし生活の基盤にかかわる交渉事とか、大きなお金の関わりかねないやりとりをこの人とするのはけっこうストレスだ。
っていうか、なんでそこまで頑なに私に電話したくないんだ。ちょっとわかるけど。
後日、敷地内の管理人さんのところへ事情をさぐりに行ってみる。
「来てくれてよかったわ。最近全然入居者さんの様子がわからなくて。
任せて。私あの管理会社で一番嫌われてるの、入居者さんの立場になって戦うからっ!」
と、亡き母くらいの年の頃を思わせる女性管理人さんは胸をはった。
こちらはこちらで心配になるくらいの謎のハリキリではあるが、歓迎して聞いてくれることや、その明るさと自信だけでもだいぶ元気になった。
管理人として13年、喋ることがいっぱいあるようだ。
半年前にアリバイのように施されてほとんど何の効果もなかった浴室コーキング工事のことを言うと
「昔はちゃんと水道屋さんもいい職人さんがいたのよ」
なんて、出入りの業者さんを嘆いて言う。
ああそれ、たぶんうちの父みたいな人です。あの人きっと誰にもなんとも思われずに一人で結構いい仕事してきたタイプの水道屋だったんだと思います。
なんて考えながら聞いていた。
ともあれ、気分がよくなった。
遠回りしておなじみの千手観音さんのところへ行って手を合わせて帰る。
よしなによろしくお願いします。