家中を開け放しておいても寒くない季節が来て、猫は楽しそうだ。
ベランダに出て黒い毛に太陽熱を充電することもできるし、日差しに疲れたら部屋に入ってきてブランケットを敷いたふかふかベンチの上で放電してもいい。
あるいはキャットタワーの一番上に昇って香箱をきめこめば、パソコンに向かう私と窓の外をいっぺんに監視可能なパノプティコンとなる。
そうこうするうちに外から方向音痴の蜂が舞い込んでくるハプニングでもあれば、焼けた溶岩のようにするするとタワーを駆け下りて気の毒な闖入者の追跡に興じることもできる。
あるいは光あふれる南向きの部屋をひと思いに出て、暗く静かなクローゼットで物思いに耽るのもいいだろう。
私が「北部方面派出所」と呼びならわすひんやりした北向きのその空間は、猫が唯一自力で開けることのできる扉がついている。
それは自由意志と分離独立の象徴であるに違いなく、そこで息をひそめて飼い主の「裏をかく」ことは彼女の大切な人生のスパイスである。
あまり素晴らしい陽気であることになにか矢も盾もたまらないような気持ちをかきたてられて、プランターに朝顔の種を植えた。
昨年の土を掘り起こしてふっくらさせ、新しい培養土を足してから、ホームセンターで買った種をバラバラと撒く。
本来は間隔を考えてもっと丁寧に撒くものではあろうが、どうせ発芽しても大部分は猫にかじられるから、それならいっそ数に頼ろうという大まかな発想である。
上からたっぷりたっぷり、希望の水をかける。
観察者でも天敵でもある猫はさっそくやってきて、黒い鼻先を近づけて熱心にフンフン土の匂いを吸い込んでいる。
土の布団の下で今まさに目がさめつつある種のことを、我々は並んでベランダにしゃがみこんだまま考える。
自分が生きてることなんてすっかり忘れるほど長く長くまどろんで、そして今、突然の太陽光と土と水分の誘いに、うっすら目覚め、抵抗してまた二度寝を試み、だんだん意識と無意識が混濁してきて、過去のことだか未来のことだかわからぬ長い話で人をひどく困惑させたりする、あのプルーストのように。
猫は飽きることなくプランターに顔を寄せ種の長話を聞いている。
一年ごとに生と死を繰り返す植物の悲しみから、長い時間をかけてゆっくり老いていく動物の悲しみへ。
去年の夏も、その土の中で朝顔が咲いたのを、猫も思い出すのだろうか。
硬い殻に包まれた種が、若く柔らかな肢体を持つ猫が、人生折り返さんとする人間が、ぐんとひとつ強い伸びをする、初夏。